結婚は娯楽の延長ではない(人生の王道を踏み外してはならない)

「結婚は娯楽の延長ではない(人生の王道を踏み外してはならない)」

こんなタイトルだと何を当たり前の事を言っているのか?とお叱りを受けそうではありますが。

本当にこのタイトルは誰もが納得している事なのでしょうか???

最近、NHKが実施した国民の意識調査によると、
結婚について必ずしも必要ではないと考える人が68%に達していて、
必ずしも子供をもたなくてよいと思っている人が60%だった、との発表がありました。

しかもこの割合はここ25年以上増加傾向にあると言うのです。

さて、結婚とその後に起こるであろう(あるいは起こるとおめでたいとされる)妊娠、出産、育児。

新しく夫婦になった若い男と女にとって、
経済的負担、心的負担はそれまでのお気軽人生を吹き飛ばすほど大変です。

ところが今から30年以上昔のバブル時代と呼ばれた頃。

多くの若い男女、特に女性は浮かれまくっていました。

当時の若い日本人男性は超好景気のため休みも取れず、
24時間働けますか?などと言う広告にも煽られて、
一所懸命働く事しか出来ない状況でしたが、
若い女性達は外国を旅行したり踊りまくったり、
スキーに行ったりと「遊び呆ける人生を満喫」していました。
(当時の若い男性はバブルの恩恵はほとんど受けていない。
 男で恩恵を受けたのは会社の予算が使える管理職のみ。
 若い男はむしろ酷い結婚難に直面した被害者と言える)

結婚を先延ばしにして、それでも性の魅力をちらつかせながら、
結婚するなら3高(高学歴、高収入、高身長)と言い始めたのも束の間、
アッと言う間に、アッシー(送迎用の男)、メッシー(お金持ちで奢ってくれる男)、
本命君(3高を満たしている結婚してもいいと思っている男)、
キープ君(本命がダメだったらこっちにしようと思っている予備の男)と使い分け、
さらに海外での若い日本人女性の乱痴気騒ぎぶりが大問題になり、
とうとう大事件が起こってしまい国際的恥さらしとまで言われる事態になりました。

しかし、それでもこの流れは全く止まりませんでした。

念のため。

こういう事を書くと必ず女性から「そんなの一部の女性でしょう?」とお叱りを受けますが。

≪一部の女性なら世界でも類のない超少子高齢化など起こってはいません≫

ちなみに上記の一連の出来事にはさらに酷い続きがあります。

こういう事態になると弱い箇所から崩れて行きます。

農村部における結婚難が深刻になり、
外国から花嫁を迎えるようになったのは今に至るまで知られている話です。

この事からも分かるように、結婚を拒絶したのは一方的に女性の側からであり、
男性ではない、と言う当たり前の事実を再確認する必要があります。

その上で。

さらに「とどめの一撃」がありました。

それが「ダブルインカムノーキッズ」です。

要するに「結婚してやってもいいけどガキは要らない」です。

この時、マスコミの多くはこのような事態を非難するどころか、
「トレンド」としてもてはやしました。

テレビ、新聞、雑誌などで盛んに面白おかしく報じられていましたから、
それは広告費に換算すると国家予算の数パーセントに匹敵するのは間違いありません。

つまり数兆円規模の広告費に匹敵するテレビ番組や雑誌、新聞などで取り上げて、
ダブルインカムノーキッズの生活がオシャレでカッコいいと、
芸能人なども使いながら盛んに刷り込みを行なっていた訳です。

マスコミのこの罪は非常に大きいです。

一部の良心的なジャーナリストは「こんな愚かな事をしていたら国がおかしくなる!!」と、
書いていましたが多勢に無勢。

この時代に破壊された「お見合い制度」と相まって、
日本は世界的にも類がないほどの超少子高齢化社会になってしまいました。

そりゃそうです。

≪ダブルインカムノーキッズ≫を忘れてはなりません。

夫婦は共働きで収入を出来るだけ多くして、
後は遊んで暮らそう。

そういう意味ですから。

つまり、結婚とは娯楽の延長であり、
楽しめないような、大変そうな出産や育児は嫌だ、と主張し、
恐ろしい事にそれを実践した時代でもあった、と。

遊び呆けていようよ、一生。

それがダブルインカムノーキッズです。

現在、超少子高齢化の原因を福祉がダメだからこうなった、とか、
日本の男がダメだからこうなった、と主張する人は多いです。

どうして《ダブルインカムノーキッズ》を平気で無視できるのか理解に苦しみます。

当たり前の事ですが、
これこそが超少子高齢化の諸悪の根源です。

バブル時代以降の女性は、結婚を娯楽の延長と考えるようになってしまった、と。

楽が出来ないから嫌、と。

しかし、そもそも結婚も育児も楽ではありません。

本能に基づく生殖行動であり、次世代を育てると言う崇高な生命体としての必然です。

私は、バブル時代に日本人女性の本能がおかしくなってしまった、と考えています。

しかしこの時、迂闊に女性達を非難しようものなら、
女の性を武器にしていた行動ですから総スカンを食らってしまい、
黙ってしまう男が多かったように思えます。

バブル時代が過ぎてから、
「バブル女は死ねばいい」などと言う本も出たくらいです。
(ちなみに著者は女性)

そうしてバブル崩壊後も、破壊されたお見合いシステムや、
失われた適齢期女性の焦りなども元には戻りませんでした。

さらに言うと。

この基本的に超傲慢な考えは今の若い女性にも受け継がれています。
(恐ろしい事に自覚症状は皆無)

↓参考記事。東京大学社会学の調査↓
https://wotopi.jp/archives/53980

↑これを読むとバブル時代以降の日本人女性達が如何にメチャクチャな要求をしているのかが理解できます。

当ブログでは教育記事中心だった以前からメインの主張として以下のものがあります。

・人生にはその後の幸福と不幸に極めて大きな影響を及ぼす2つの重大事がある

・それは就職と結婚である

・現代の戦後民主主義教育により社会をより平等に見せるための嘘が蔓延させられた
ゆとり教育少年法、価値観の多様化など。これらは悪質な嘘やシステムです)

勉強が出来ない子供の成績を相対評価と言う手法を使って、
「そんなに出来ない訳ではない」と見せかける成績操作が横行していました。
ゆとり教育の間違いに気付き現在は修正過程)

逆に中学受験をするために高度な学力を身に着けた子供には、
意図的に低い成績をつけて「そんなに出来る訳ではない」と見せかける成績操作をしています。
(これは現在進行形)

つまり一部の小学校の先生により成績の不正操作が行われている実態があります。

これ、中学受験をする人達にとっては当たり前で、
6年の時の担任次第で酷い目に遭わされるのは常識的注意事項ですが、
受験をしない人達にとってはどうでもいい事なので重大問題化されていません。

いくら勉強が出来たって、とはよく聞くセリフです。

今の世の中、価値観は沢山あるんだ、個性が大切なんだ、と。

本当にそうなんでしょうか???

実は、価値観とは見る位置、立場によって全然違ってしまいます。

例えば「音楽には様々なジャンルがあります」と言うのは間違いではありません。

確かにクラシック、歌謡曲、ジャズ、ヒップホップ、ロック、演歌等々沢山あります。

しかし視点を変えたらどうでしょうか???

上記のどんな分野の音楽に傾倒していようとも、
趣味の分野と言う立場で見た場合「単なる音楽好きの人」になります。

つまり、如何なる種類の音楽でも音楽と言うひとくくりになってしまうのです。

さらに人格と言う立場で考えると「単なる趣味をもっている人」になります。

実は人間の価値観は多様化などしてません。

勝手に細分化して、現代は価値観が沢山あると、
《自分の不幸の言い訳》をしているに過ぎません。

如何なる音楽にのめり込もうとも。

それは達成動機の強い人、と言うひとくくりになります。

実は人間の幸福には3種類しかありません。

・パワー動機(勝ち負け)

・達成動機(目的達成)

・親和動機(人と仲良く)

この3つです。

このどれか1つでも欠けたら人間は不幸になります。

程度によっては簡単に自殺します。

例えば、パワー動機の場合。

不合格になったり解雇されて自殺する人は大勢います。

達成動機の場合。

芸術家で作品が作れなくなり自殺する人はよく知られています。

親和動機の場合。

恋人にふられて自殺する人はよく知られています。

これらの動機を基準に考えると、
明らかに《人生には優先的にすべき重大事がある》と分かります。

決して価値(観)とは沢山はありません。

また物事には優先順位があり、決して平等に配置などされてはいません。

優先しなくてはならないものが存在していると言う歴然とした事実。

パワー動機ならば、
お金、良い職業、社会的地位、容姿、学歴などが最優先されます。

達成動機ならば、
仕事のやりがい、趣味の充実、余暇の充実が最優先されます。

親和動機ならば、
親子関係の充実、夫婦関係の充実、兄弟関係の充実が最優先されます。

さて、ここで掲題に戻ります。

人間は性を持っている以上、パートナーを求めます。

1人では絶対に幸福にはなれません。

それこそが幸福の三原則である親和動機の恐さです。

巨万の富はパワー動機ならかなりの部分を満たしてくれます。

素晴らしい趣味を持っていれば達成動機をかなりの部分で満たしてくれます。

しかし上記をいくら満たしても親和動機は満たせません。

むしろ億万長者でもパートナーとのトラブル一発で自殺する人もいます。

従って親和動機と言う視点で見た場合、確実にこう言えます。

≪パートナーがいない人生は不幸である≫と。

さらにこうも言えます。

≪子供がいない人生は不幸である≫と。

何故なら、親和動機の中で最も大切なのは親子関係であり夫婦関係だからです。

そんな事はないと言うのはまやかしです。

友人や会社の上司は自分がその気になれば変える事ができます。

もちろんかなりの精神的・経済的痛みを伴うでしょうけれど、
友人と絶交したり職場を変える話はよく聞きます。

しかしながら親子関係と夫婦関係はそう簡単に解消は出来ません。

子供がいなければ簡単に行くケースはありますが、
いたら非常に難しくなります。

兄弟関係も含めて、血縁関係とはそう簡単に切れないからです。

つまり人間が親和動機を満たそうとした場合、
自分の親との関係を良くするだけでなく、
自分も親になり子を持ち、次世代を育て行く必要が生じるのです。

子を持つと言うのは自然の営みであり、
これを無視したり忌避した場合、
少なくとも親和動機は満たせない人生が待っているのだけは間違いありません。

そんな事はないと強弁する人もいるでしょう。

残念ながらヒステリックにそう思い込もうとしているだけです。

もちろん事情によりパートナーが得られない人もいるでしょう。

悲しいかな、その場合。

繰り返しますが人間の幸福の三要素のうちの親和動機は満たせません。

満たせない以上、残念ながら不幸なのです。

如何なる言い訳も親和動機の前には無力です。

ならば変な道への逃げ込みや言い訳よりも、
不幸は不幸として認めた上で対策を講じた方が遥かに有意義なのは言うまでもありません。

現代日本には異様な平等思考や言葉狩りが大流行しています。

こういう風潮に流されて老いた時に何が待っているのか?

考えないでいると、ハッと気付いた時には手遅れになっています。

結婚しない人が多くなっているから自分も大丈夫だろう???

子供は面倒臭そうだから自分もいいや???

有意義な人生を送るためには、
パワー動機、達成動機、親和動機を適切に満たす必要があります。

そして親和動機を満たすためには、
他の全ての性を持つ生物と同様に、
性行動と次世代の育成と言う試練が待っています。

ここから目を背けて遊び呆けていても、
満たせるのはせいぜいパワー動機くらいでしょう。

何も解決はしないまま老いて、
言い訳だけの寂しい人生に成り下がるのが、
親和動機の恐ろしい現実です。

親和動機が満たせない恐さ。

それは精神科に長年勤務していた私の母が、
老いてから悔やみ、病んでしまった《女性》を数多く目撃した経験からも裏打ちされています。

そうなってからでは手遅れです。

終わり