災害対策と「政治思想」「価値観」「性格」の関係と生存率について

「災害対策と「政治思想」「価値観」「性格」の関係と生存率について」

最近の大豪雨や大地震を目の当たりにして、
改めて「東京大地震2023」PHP文庫を読み直しました。

これは小説形式になっている災害シミュレーションと言えます。

大勢の人が様々な死に方をします。

生き残る人もいます。

読み返してみますと、
この小説は大変興味深いことに、
被災者の政治思想や価値観、性格が生死に密接に関連している描き方がされていたのに気付きました。

そして自分自身の3.11の時の心理状態も思い出したため、
それらをまとめて記事にしたいと思います。

例えば、自分はどんな場所にどんな居住形態で住んでみたいと思っているのか?

あるいは実際に暮らしているのか?

小説では、下町の人情が大好きで、生まれた時から下町で暮らし、
昔ながらの木造建築が大好きな家庭が数組出てきます。

そんな彼らを首都圏直下型及び相模湾トラフ連動型の大地震が襲います。

古い木造建築で海抜0メートル地帯で暮らす彼らは。

ある老夫婦は崩れた家の中に閉じ込められた挙句、
火災により生きたまま焼かれて死にます。

ある夫婦は自分達の運命を悟り、
焼死する前に自殺を選びます。

この著者は他の著作物でも、
木造建築が密集している地域の危険性をかねてからずっと警告し続けています。

下町暮らしの人達で地震の第一撃を生き残った人達も、
襲ってくる津波により大勢が命を失います。

ちなみに今までは東京湾奥は大きな津波が来ないと思われていましたが、
最近の研究ではこれは完全に間違っているとされています。

さらに運悪く首都高速湾岸線を運転していた人達はどうなるのでしょうか。

小説では、追突事故を起こしたにも関わらず、
相手を非難しようと激高して出て来たDQN男。

タバコをくわえて出て来たから堪りません。

漏れて気化したガソリンに引火してアッと言う間に火だるまになり死にます。

それにより誘発される車両火災。

地獄絵が首都高速上で展開します。

そのような場面で生き延びる者は、
どのような知識を持ち、どのような決断を下し、どのような装備をしているのか。

この辺りの記述は大変興味深いです。

では山の手なら安全なのか・・・・・

木造住宅密集地の品川区戸越近辺や中野区の住宅地に住む者達。

あるいは新宿近くの新国立劇場近辺、銀座、日比谷、等々。

都市型大地震であった阪神淡路大震災では火炎旋風が目撃されています。

下町は火責めと水責めに。

山の手は古い木造建築密集地域のため火責めに遭います。

東京の具体的な地名が次から次へと出て来て、
問題点をどんどんと浮き彫りにして行きます。

そこにいる人達がどのように死ぬのか。

あるいはギリギリ生き延びるのか。

ともかく大勢死にます。

このシミュレーション小説は、基本的に戦後民主主義的な政治思想を非常に嫌っていて、
実際の歴史や過去の災害対策を痛烈に批判しています。

関東大震災の時。

阪神淡路大震災の時。

東日本大震災の時。

政府が無能者の大集団だったのが知られています。

日本の近年の大災害は無能な政府の時に起きると言うジンクスが知られています。

小説では2023年時を想定した無能な首相を徹底的に醜く描いてきます。

多くのリベラル系の考えをする人達は、
「命が大切」「戦争反対」「人権が大切」と主張しています。

時に国会前にも出掛けて強く自由と平等と平和をアピールします。

しかし某国がミサイルを日本に向けて何発も発射して、
下手をすれば大勢の人が死ぬ可能性が非常に高かった時、
「Jアラートがうるさい」と言いました。

大袈裟だ、とも。

某元首相に至っては、
災害時の自衛隊の出動を嫌がっていたのが阪神淡路大震災の時の言動で明らかになっています。

つまり、彼らは実のところ「人命よりも自分達の思想を優先している」事を意味しています。

これは非常に危険です。

彼らは命が大切と言いながらも、
本当のところ、そうは考えていません。

自分に都合の悪い分野においては、
危険を危険とは絶対に思わないのです。

某国からのミサイルの飛来や、
某島での軍事衝突の危険を徹底的に無視して、
見ない事、考えない事だけで切り抜けようとしているだけです。

災害対策でも、サバイバル=軍事と思うのか、
嫌がる人が結構いる現実があります。

こういう連中が身近にいた場合、
巻き込まれたら致命傷を負わせられます。

ではその種の連中に覚悟があるのか?と言いますと、
体験上、絶対にそんな事はありません。

緊急時は怒鳴る喚く泣く・・・・・

それだけです。

では自分の具体的な経験を書いてみたいと思います。

3.11の時、私は職場にいました。

幸い首都圏は震度5強であり、
全ての交通機関は止まってしまいましたが、
具体的な大きな被害はほとんどありませんでした。

しかし揺れのその瞬間、私はどのような心理状態になり、
どのような行動をしたのかを改めて書いてみたいと思うのです。

今まで体験した事のない大きな揺れの中で私は叫びました。

「どうして今日なんだっ!!」と。

恐怖によるものではありません。

震度7の揺れや加速度は何回か消防署の体験設備で経験していたため、
震度5強の揺れ自体には恐怖を全く感じませんでした。

しかしながら。

普段は滅多に外出しない娘が、
その日に限って横浜中華街に友達と出掛けていたのです。

さらに普段は滅多に外出しない老いた私の父と母も、
その日に限って町田市に暮らす親戚の伯母のお見舞いに行くため、
町田市内の奥地にある病院に行っていたのです。

さて揺れの最中、私は自分の身を守る行動など一切せず、
携帯電話で娘に電話を掛けていました。

新耐震基準を満たしている建物が嘘みたいにブンブンと大きく揺れている最中です。

この時、何と電話は繋がったのです。

呼び出し音が盛んに鳴っていました。

しかしもちろん大きな揺れの最中でしたから、
娘は当然応答しませんでした。

揺れが収まった後、再度掛けましたが、
既に電話回線はパンク状態(規制がかかった状態)になっていました。

そして続々と入って来る大地震情報に、
娘が行っているはずの老舗の建物は古いため、
倒壊したのでは?と言う悪い想像も働き、
ともかく娘の安否確認に必死になっていました。

しかし当然電話は繋がりません。

かなりの視野狭窄状態でした。

それでもハッと一瞬我にかえった私は、
取り敢えず、近くの自宅まで行き、
自宅内が無事だと確認した後、
再び職場に戻って来ました。

職場のパソコン、スマホ、電話を総動員して娘の安否確認を最優先していました。

余震が続く中、妹が正常性バイアスに陥り、
どうでもいい作業を危険な場所でし続けていたので、
止めろっ!!と怒鳴り安全な場所に移動させました。

ちょうどこの時、簡単携帯を使用している父母から電話が入ったのです。

この簡単携帯は周波数帯が他のスマホとは違っていたため、
規制対象外であっさりと繋がりました。

ここで町田市にいる父母の安否確認が取れて、
少しだけホッとしましたが肝心要の娘の安否が分からないため、
全精力を娘との安否確認に費やしていました。

しばらくすると再び私のスマホの電話が鳴ったため出ると、
それは娘からではなく父母からでした。

普段から私の災害対策を不愉快に思っていたややリベラル系の考えをしていた父は、
「自動車で迎えに来てくれ」と要求して来ました。

即座に却下。

「この電話回線は娘との安否確認を最優先するから、しばらくは掛けて来るな!!」と激しく拒絶。

その後、1時間半くらいしてからでしょうか。

ようやく娘からの電話が繋がり無事だと分かったので、
一安心したのであります。

幸い、娘は早い時間に友達と別れて、
既に最寄り駅に到着していて、
駅ビルにあるデパートなどでウィンドウショッピングをしていた最中に地震に遭っていました。

この段階では自動車は全く走っていない状況だったので、
迷わず自動車に乗って娘を駅まで迎えに行き、
同時に偵察行動も兼ねて駅周辺の様子を見て来たのです。

娘を駅前で乗せた時、周囲は全て停電していて、
恐ろしい数の人達が駅で呆然と立ち尽くしているのが分かりました。

娘と合流し、初めて私は元気になり、
冷静さを取り戻して、かねてからコツコツと用意していた災害対策グッズを機能させ始めて、
対応に当たって行った次第です。

父母とも連絡が再びついたのですが、
父は相変わらず「自動車で迎えに来てくれ」の一点張り。

私は、父では話にならないため、
母に「何とかして親戚の家を探し出せ(超久しぶりだったので分からなくなっていた)。
そして今晩はそこで泊めてもらえ。迎えは不可能。」と言い切りました。

さて、後からこの時の父母の行動を母から聞いて、
う~む、見事であったと驚いたのであります。

こういう時、中高年以上の男は役に立たないケースはよく知られています。

被災時において、高齢の男は過去の職場の栄光など、
何の役にも立たない権威を持ち出すだけで、
具体的に必要な行動がとれない人が多いのが知られているそうです。

父が憑かれてしまったのは、
「家に帰る」と言う一点張りでした。

何とかして家に帰るため、
町田駅に着いたのですが、当然駅は凄まじい人で溢れかえり、
タクシー乗り場も信じられないくらい長い行列が出来ていたそうです。

即座に母は諦めて、父を一喝し、親戚の家の方向に歩き始めたそうです。

しかし分かりません。

するとラーメン屋を見つけたそうです。

直ぐに父に「ラーメンを食べる」と言い切り、
嫌がる父も一緒に連れて、先ずはラーメンを食べたそうです。

そしてさすがに元看護師だった母は、
「今夜は何としても親戚の家を探し出し、そこで泊まる。
 あの駅の超混雑と大渋滞を見ろ。
 迎えは無理だ。」と言って、ともかくラーメン。

そして外に出た母は今度は寂れた場所で、コンビニではない、
旧態然とした食料品店を見つけます。

すかさず店に入り、飲料水を各自1.5リットルずつ、
パンを数個ずつゲットするのに成功しました。

これにより、それから先の約12時間の活動が保証された事になります。

俄然余裕が出て来たので、
ここから女性特有のコミュニケーション能力の高さを一気に爆発させて、
人に聞きまくり、無事に親戚の家に辿り着くのに成功します。

父は何をやっていたのか・・・・・

親戚の家からの電話でも。

「今から迎えに来てくれないか?」の一点張りでした。(苦笑)

そうして翌日、交通機関が動くようになり帰って来たのですが。

当然、全ての店から食料品が消えていました。

父は、今度は「パンが食べたい~パンが食べたい~」を繰り返していました。

普段は「オレは戦争を体験しているからオマエらとは違って耐えられるんだ」と豪語していましたが・・・・・

私のリベラルに対する不信感はここから来ている???(苦笑)

まあ、ともかく。

災害対策と政治思想は間違いなく連動しています。

特にリベラル系の考えをする人には要注意です。

また、もちろん性格とも連動しています。

間違った判断、間違った装備(非装備と言うべきか)は命取りになるのは言うまでもありません。

そして子供を持つ親は。

我が子の無事が確認できるまでは無力となり、
如何なる装備も役に立たないのだ、と思い知ったのであります。

安否確認は今や最も重要な災害時の行動になっていると言えます。

終わり



余談1:思わぬ死に方をする人

歴史好きな人は多いです。

古い木造建築や昔の街並みが大好きな人も多いです。

しかし、好きな事と実際に暮らす行為は全く違います。

下町で古い木造建築の密集地域で暮らすことは地震大国の日本においては、
相当の覚悟が必要な行為だと自覚する必要があります。

また、お金持ちで「眺めの良い場所で暮らすこと」に拘る人も非常に多いです。

小説では東京のウォーターフロントの高層建築で暮らすお金持ちの夫妻が登場します。

ここなら仮に津波が来ても絶対に大丈夫だと思い込んでいます。

しかし、思わぬ死に方をします。

東日本大震災の惨状を知っている人は、
以下の小説の内容を絵空事だと言って笑えないはずです。

津波で流されてきた東京湾上のタンカーが海辺の高層マンションに激突して炎上します。

まあ、ここまでは無いとしても、
エレベーターが止まった高層建築の上層階の住人がどうなるのかは容易に想像がつきます。



余談2:助かる人

あくまでもシミュレーション小説ではありますが。

全員が常日頃から防災意識を強く持って生きていて、
具体的に出来る限りの努力をしている人達が助かります。

典型的なのは、職業的に成功して、中野区の地盤の良い場所に、
地下室を堅牢にして、土台を強固にした上で、
鉄筋コンクリートの耐震耐火建築に暮らしているサバイバルの達人が登場します。

この人はさらに二重三重に窓などに火の侵入を許さない工夫をしていました。

娘2人と奥さんとの4人暮らしで、
絶対に家族を守ると言う凄まじい信念の持ち主です。

しかし、住居を上の階にして、
1階と2階を職場にしていました。

地震の後、従業員達を直ぐに帰宅させたのですが、
ここでかねてから問題のある喫煙者の従業員が、
こっそりと火災時のためのスプリンクラーのスイッチを切って喫煙し、
普段はその後スイッチを入れていたのですが、
地震のため慌ててスイッチを入れないまま窓まで開けたまま帰宅してしまいます。

これにより火災旋風に襲われたこの家にも火が侵入しかかります。

万全と思われた家もあわやと言うところで、
この家の主人は職場の財産を直ぐに見捨てて、
対抗策を取り、何とか切り抜けることに成功します。

普段からの備えは非常に重要ですが、
たった一人のマヌケの行動のために灰燼に帰す事もある、と。

また、ある老夫婦が広域避難場所に逃げて来ます。

しかし火災旋風に襲われます。

関東大震災時の歴史を思い出します。

絶体絶命と思われた時、1人の男がホースで、
冬場にも関わらず逃げて来た人達に向かって放水を開始しているのに気付きます。

すると火の方向が変わります。

多くの放水している人がソレに倣って避難している人達に水をかけ続けて、
火の方向を変えるのに成功します。

見ていた老夫婦は「あの人は余程のサバイバルの達人に違いない」と感心します。

この種の達人が近くにいたら心強い限りではありますが、
あいにく実際の被災場面ではそうは行かないでしょう。

しかし装備は非常に重要なのは間違いないところです。

普段の外出でも最低限の防災グッズは持ち歩きたいところです。