この1曲:ベートーベン 交響曲第9番 ニ短調 作品125(合唱付) 1942年演奏盤

この1曲:ベートーベン 交響曲第9番 ニ短調 作品125(合唱付) 1942年演奏盤
 
時期:1942年 
 
 
指揮:ウィルヘルム・フルトヴェングラー
 
今年最後の「この一曲」は当然ベートーベンの交響曲第9番をもってきます。
 
非常に特殊で、おそらくは最強の演奏を挙げてみたいと思います。
 
大量殺戮・・・・・
 
1942年とは第二次世界大戦の真っ最中です。
 
まさに大量殺戮の時代において演奏された曲です。
 
人間って醜悪だと私は思っています。
 
欲にまみれ、その欲のために時に人を殺しても良しとしますし。
 
大量殺戮とは遠い昔の話ではありません。
 
現代に暮らす私達にも無縁ではないどろこか、
世界のあちらこちらで行なわれています。
 
作家の安部公房氏は「人類のなわばり論」を提唱していました。
 
・人間とは個人で見ると非常に崇高で素晴らしい人物がいる。
 しかし、集団になると段々と愚かになり、国家レベルになると幼稚園児なみとなる。
 
当たっていると思います。
 
1人の人間としては、崇高な理念と行動力を持った素晴らしい人物がいます。
 
けれどもその人間の集団が形成する国家は醜悪の塊であると感じています。
 
この交響曲第9番について書く前に先ずは作曲者であるベートーベンについて、
恥ずかしながら最近知った事を書いておきたいと思います。
 
学校の音楽室に飾ってある作曲家の肖像画
 
何故かベートーベンは自毛ですが、それ以前の作曲家は皆カツラを被っています。
 
何故なのでしょうか?
 
ベートーベン以前の音楽とは、王侯貴族のモノだった、と。
 
だから作曲家達は皆、貴族のパトロンを持ち、彼らの前に出るための正装であるカツラを被っていた、と。
 
しかしベートーベンは音楽とは民衆のためにあると考え、カツラを脱ぎ去った初めての作曲家であった、と。
 
これは、現代人の私達が歴史として考えると「ふ~ん」の一言で済まされますが、
まだ民主主義以前の時代だったと認識しないといけません。
 
貴族のためだけの音楽ではない?
 
これはパトロンを失うことを意味します。
 
下手をすれば簡単に殺されるかも知れない時代であったのです。
 
現代の民主主義体制下におけるパンクロックとは比較にならないくらい危険であったと思うのです。
 
ベートーベンの反逆性はハンパないと思うのです。
 
そしてベートーベンの音楽は非常に熱いと私は思っています。
 
人を簡単に狂気に導くほどの威力を持っていると私は感じています。
 
さらに、全てのベートーベン作品の中でも圧倒的な最高峰と言われているのは間違いなく、
交響曲第9番 ニ短調 作品125」であるかと思います。
 
今回挙げた動画はナチスドイツ時代に悪名高きゲッペルスの前で演奏された第9です。
 
最後の約5分は極めて珍しいフルトヴェングラーの演奏シーンが「動画」で見られます。
 
フルトヴェングラーは戦後、ナチスに加担したと思われ少し冷遇されていた時代もありますが、
実際にはまるで違います。
 
1934年にヒンデミット事件を起こした張本人です。
 
公然とナチスを批判した人で、当時ナチスの手により公職を追放された経緯があります。
 
しかし、後にナチスと和解し再びベルリンフィルを指揮します。
 
その時の演奏が今回挙げた1942年の第9です。
 
一般的に第9好きにとって最高の演奏とはフルトヴェングラーの1951年バイロイト祝祭の演奏を挙げる人が多いかと思います。
 
確かに1951年のそれは神がかり的に素晴らしい演奏だと私は思っています。
 
これに匹敵にするのは皮肉にもバリバリのナチス党員だったヘルベルト・フォン・カラヤンの全盛期の演奏でしょうか。
 
けれども、音楽的な感動とは必ずしも音だけでは決まって来ないように思うのです。
 
歴史的な演奏を歴史の証人として目撃した時、
それは人類が語り継いで行かなくてはならないと思うのです。
 
この演奏は感動の質が違います。
 
最近においてはベルリンの壁崩壊の年に演奏されたバーンスタイン指揮、
東西の演奏家達による第9があります。
 
この時は「Freude(喜び)」を「Freiheit(自由)」に置き換えて歌われました。
 
さて、この1942年の演奏。
 
聴衆の1人としてナチス・ドイツの宣伝相であったゲッペルスがいます。
 
ナチスと一応和解したとは言え、本心では反ナチスの巨匠フルトヴェングラー
 
この時見せたこの演奏は・・・・・
 
おそらく私は1951年の演奏を凌いでいるのでは?と思うのです。
 
「全人類は皆兄弟となる」と歌うシラーの詩。
 
ナチス・ドイツが行なっていたのは1つの民族を根絶させようとする大量殺戮でした。
 
その宣伝相の前での熱い熱いほとばしるような第9を演奏するフルトヴェングラー
 
この動画の映像をナチスの宣伝ととらえる人も多いかと思います。
 
しかし、歴史として現代の私達が冷静に眺めた時。
 
狂気に溢れた偉大なる反逆であると思うのです。
 
演奏が終わった後、フルトヴェングラーの元に歩み寄り握手をするゲッペルス
 
演奏された曲はベートーベン「交響曲第9番 ニ短調 作品125」。
 
そう、人類愛を歌い上げた曲であります。
 
これほどの皮肉とこれほどの感動がありますでしょうか。
 
 
 
楽曲解説
 
第1楽章:Allegro ma non troppo, un poco maestoso ニ短調  4分の2拍子
 
地鳴り。
 
指示である「厳かに」を完全に超越している。
 
かつて、ベートーベンを初めて聴いた未開の人達が恐れおののいて座席の下に潜り込んだと言う逸話があるが、
さもありなんと思う。
 
特にこの演奏においてはティンパニが非常に効果的に使用されていると思う。
 
地鳴りと共にフルトヴェングラーの演奏は続く。
 
圧巻であるかと。
 
 
第2楽章:Molto vivace ニ短調 4分の3拍子 - Presto ニ長調 2分の2拍子 - Molto vivace - Presto
 
これまたティンパニが重要だと思う。
 
弦が圧倒的な速度で導入された直後、ティンパニが揺るぎなく確信に満ちて打ち鳴らされる。
 
その後、速度を保って曲は進行して行く。
 
フルトヴェングラーの演奏においては、最後の第9となったルツェルン音楽祭の演奏においても、
この感覚はずっと維持されていると思う。
 
フルトヴェングラー独特のものを私はティンパニの音に感じている。
 
 
 
第3楽章:Adagio molto e cantabile 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ニ長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ト長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ホ長調 4分の4拍子 - Stesso tempo 変ロ長調 12分の8拍子
 
交響曲第9番においては唯一ゆったり出来る楽章。
 
ベートーベン・・・今更ベートーベンと気取る音楽通も多いかと思う。
 
しかしながら。
 
嗚呼、ベートーベン・・・・・
 
私はつくづくベートーベンが好きだ、と思う楽章。
 
ウィキによると音楽評論家の吉田秀和氏はフルトヴェングラーは「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」と書いてある。
 
なるほど、確かに官能的であるかも。
 
そしてベートーベンの優しい楽章って一見すると穏やかなんだけど・・・・・
 
秘めたる熱情。
 
やっぱり感じてしまう。
 
 
第4楽章:Presto / Recitativo ニ短調 4分の3拍子 Allegro ma non troppo ニ短調 4分の2拍子 Vivace ニ短調 4分の3拍子 Adagio cantabile 変ロ長調 4分の4拍子 Allegro assai ニ長調 4分の4拍子 Presto / Recitativo ニ短調 4分の3拍子 Allegro assai ニ長調 4分の4拍子 Alla marcia Allegro assai vivace 変ロ長調 8分の6拍子 Andante maestoso ト長調 2分の3拍子 Adagio ma non troppo, ma divoto 変ロ長調 2分の3拍子 Allegro energico, sempre ben marcato ニ長調 4分の6拍子 Allegro ma non tanto ニ長調 2分の2拍子 Prestissimo ニ長調 2分の2拍子 
 
この楽章は狂気に溢れていると思う。
 
人類愛を謳いながらも完全に狂っていると思う。
 
それ故、非常に人間的であるかと思う。
 
熱く、思い切り熱くさせられる狂気の楽章。
 
特にフルトヴェングラーの演奏においては緩急のメリハリが激しく、
徐々に徐々に加速して行き、最後は木端微塵に大爆発、空中分解してしまう重機関車の暴走に見える。
 
そして何よりもゲルマン民族的であるかと。
 
ゲルマン民族の熱情、ここにあり、と。
 
破壊的な美しさである。
 
終わり
 
 
 
余談:最近、つくづく思うのであります。
 
芸術って恐ろしくも素晴らしいものである、と。
 
人間には「差」と「壁」があります。
 
人種、言語、思想、貧富、美醜、地位、学力、人格、様々な差と壁があります。
 
この差と壁は容易に越えられません。
 
これにより色々な対立が生じます。
 
しかし、たった1つだけ、私達人類が手にしている「平等」があります。
 
それは「芸術」です。
 
芸術だけは簡単に人種、言語、思想、貧富等々の差と壁を超越して来ます。
 
人は美の前においてのみ平等である、と。
 
言い換えるとコレは美を感じる感性さえあれば人は平等なのだ、と。
 
だからこそ、世界の芸術家達は簡単に同じような思想と行動を持つようになるのかな、と。
 
そんな風に感じているのです。