日本人の大学選択の間違いについて

高度成長期から今に至るまで、
日本人の大学選択は実は世界の潮流からすると異常だ。

それは一言で言うと偏差値重視主義と言える。

具体例を挙げると、例えば「早稲田大学に行きたい」「慶應大学に行きたい」となってしまう。

ここにおいて、一番大切な何を学びたいのか?が犠牲にされている。

もっと言うと、例えば早稲田なら政経商学、文学、教育等々、全学部を受ける者も少なくない。

自分の持つ学業の適性や目的を一切無視し、
偏差値重視で全てを決定して来る。

この選択方式は、実は高度成長時代、
もう少し言うと欧米に追い付け追い越せの時代までなら有効だったと思う。

何故なら、企業に入り、配置転換された場合でも、
自分の希望なんかを捨てて柔軟に対処できる人間が育つからだ。

だが、高度成長が終わり、バブルも終焉した今、
求められている人材は、高度な技能、想像力、あるいは営業力と言った、即戦力に変貌している。

時代が求めている人材とは、未だにかけ離れた大学入試の実態が日本には残っている。

相変わらず大学に入ったら遊べると思っている学生は多い。

これでは人材も育たないし、もっともっと凄まじい勉強をしている諸外国の学生に敵う訳はない。

だからこそ、急速に日本の経済力は落ちている。

自分は一体何を学び、どんな職業に就きたいのか???

これは、もう小学生から徐々に徐々に「教育」して行かないといけない問題だ。

急にどうこうは出来ない。

かなり恐ろしい問題であると認識している。

終わり



余談:日本の大学のレベルは、特に文系が未だに低いように感じている。

   国公立大学の場合はセンター試験で高度な得点が要求されているのでまだマシだが、
   私立大学の場合、最難関大学でも結構バカがいる。(人の事は言えた義理ではないが。苦笑)

   大学が遊び場所???

   冗談ではない。

   よくよく大学のカリキュラムを見てみると、
   素晴らしく高度な事が(授業料さえ払っていれば)いくらでも学べると分かるだろう。

   例えば、大人になってからラテン語を学ぶと言ってもほぼ不可能だ。

   しかし、大学なら「ラテン語特講」とかを任意で選択すれば別に月謝を払う必要もなく学べるのである。

   4年間をフルにこのような任意科目を選択して学んだ場合、
   欧米の大学に負けない、素晴らしく高度な教養を得る事が可能になって来る。

   遊んでいる暇など無いのである。

   この大学の持つシステムをもっともっと有効活用すべきかと。