そもそもの間違い。諸悪の根源。教育現場でコレをやられたら命取りになる。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

上記は言わずと知れた日本国憲法前文の一部である。

憲法とは、あらゆる法規の頂点に君臨する「法」である。

民法や刑法他、この憲法に合致しない法律は無効とされる。(もちろん、手続きは大変だが)

敗戦後、大日本帝国憲法に変わり制定された日本国憲法

当然ながら、日本国民の根本的な「法」として機能してきた。

今から30年くらい前までは、
驚くなかれ「軍事・防衛」について語ろうとしただけで「右翼」と言うレッテルを貼られた。

「日本の核武装」など言おうものなら「狂信者」とされていた。

ココで筆者のスタンスを明確にしておく。

「私は思想に与しない」ことをモットーにしている。

思想にとりつかれた者は平気で人を殺すようになる。

だから、思想は研究するが思想には与しない。(と言うほど勉強していないが。爆)

さて、本題に戻る。

戦後、この憲法前文の精神は見事なまでに日本国民の思想に大いなる影響を与えたと思う。

早い話、こういう事だ。

「相手方には間違いはない。私がイケないんだ。私さえしっかりしていれば問題は解決する」

驚くべき事に、一国の命運を左右する「軍事」にまでこの思想が蔓延っていた。

そして、最もこの前文の思想が体現化された世界は公立義務教育機関であったと筆者は考えている。

つい7年ほど前に完成された「ゆとり教育」。
この、ゆとり教育の世界において実現化された。

念のため「ゆとり教育」とは単に勉強が簡単になっただけではない。
学業の簡略化に伴い、学業以外の事を学ばせようとしている。
「平和」「福祉」「奉仕」などなど。
これは良い点ではある。しかし・・・

それまでの流れとして、教師の体罰が徹底的に排除された。

その後、被害者を見ない、見せない制度を徹底させた。
即ち、少年法を厳格化させ、加害者側を一方的に保護し、
被害者を無視する制度の完成。
(もちろん、マスコミもコレに右へ倣えした)

しかし、教育の世界においては、
ゆとり教育」の完成と共に凄まじい「膿」が噴出した。

「学級崩壊」「加害児童の放置」「被害者の惨状」

全ての人間を「善」と看做してしまった憲法前文。

ココに諸悪の根源がある、と私は考えている。

間違いなく「悪逆なる者」は存在している。

それらに対峙した時、無力になるのが今の公立義務教育機関

幸い「ゆとり教育」は見直されている。


余談:学級崩壊の最中、一つの傾向が見られた。
   
  「原因を直視しない・出来ない」

   学級崩壊の原因が教師の指導力不足にあった場合は簡単だ。
   教師を辞めさせれば良い。
   手続きは難しいが、余りにも酷い教師には実際そうしている。

   しかし、子供に原因がある場合・・・・・

   親の誰もが「今後の付き合い」を考慮して及び腰になる。

   そして、加害児童に対して無力な現状・・・・・

   こうして、イジメ被害者が不登校になって行く構図が延々と続く。