昭和の思い出 : 「ガリ版刷り」と「わら半紙」

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先ほど、パソコンで作業していてプリントアウトした時、
ふと気付いた。

ここ20年くらいで飛躍的に進歩したデジタル時代を迎えていて、
スマホやパソコン、はたまたタブレットなどを使用して、
LINEなどのSNSで非常に高度なコミュニケ-ションを当たり前のようにしている。

しかし、今から40年以上昔を思い出すと、
当時の小学校や中学校では、人と人のコミュニケーションは電話とか手紙が主流で、
一度に大量に皆に知らせたい場合はプリントを配っていたが、
当然ワープロなどある訳もなく、タイプ屋さんに頼んでそれをコピーしていたように思う。

しかしコピーも高価なため、学級新聞などは「ガリ版刷り」なるものを使用していた思い出がある。

私自身はもうほとんど覚えていないため、
先ほど改めてWikiで調べてみた。

すると写真があったのでお借りしてみた。

そうそう、こんな物だったよな、と。

今となってはどんな風に印刷していたのか忘れているが、
掲載した写真のような道具を使って面倒臭い作業をしていたと思う。

それも手書きの文字だったと思う。

現代とは比較にならないくらい旧世代の道具ではあるが、
妙に懐かしい。

大抵の場合は「わら半紙」に印刷されていた記憶もある。

今は「わら半紙」すらも滅多に見掛けないように思う。

安い紙だったけど、手書きしたものをガリ版刷りして学級新聞とか小さなプリントにしたり。

意外にも文字の有難味はこの時代の方が遥かに上だったのではないかとすら思う。

何故なら。

スマホやらパソコンでの漢字変換と電子媒体に慣れている今の自分。

漢字が急速に書けなくなっているからだ。

時にこの進歩は間違っているのではないか?と思ってしまうこともある。

人間の文字に対する感覚は今大きく変化しているのではあるまいか?

そして最近つくづく思う。

今こそ読書が必要な時代である、と。

太古より私達は文字を使用して文化を継承し、
様々な出来事を記録して来た経緯がある。

それは現代においても全く変わっていない。

映像の記録が出来るようになったのは素晴らしいが、
それでも文字による記録や情報伝達は時に映像よりも遥かに優れていると思うからだ。

ガリ版刷りは文字を大切に扱っていた時代の失われた道具なのだと妙に懐かしく思った。

安っぽい「わら半紙」も逆に印刷された文字の有難味を思い出させてくれた。

終わり