劇的な変化の中で:「デジタル・ワビサビのすすめ 「大人の文化」を取り戻せ」を読んで考えた

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「デジタル・ワビサビのすすめ 「大人の文化」を取り戻せ」

たくき よしみつ著。講談社現代新書。本体760円(税別)


この本はとても示唆に富んだ内容であると思いました。

現在私が考えている事と極めて合致するので、
単に感想を書くと言うよりは、内容を踏まえた上での自分のエッセイにしたいと思います。

今の私達は非常に大きな革命もしくは変革の渦中にいると感じています。

今までの「IT革命」と呼ばれたソレは企業を中心とした職場におけるものでした。

より効率的なビジネスのあり方をコンピュータやインターネットの力で構築して来たと言えます。

しかしながら、私達のプライベートな生活においては、
それほど大きな変革をもたらして来ませんでした。

ところがここ5年くらいで劇的に変化していると私は思っています。

当記事の主旨は他でも多く語られているビジネスのケースではありません。

私生活の劇的な変化と、それにどう対応して行くべきなのか?について考える内容となります。

そして私生活の中において「自分だけの時間」を使うに当たって、
最も重要な問題となる「文化」についての内容です。

デジタル技術は今から20数年前のパソコンの普及と共に急速に進化して来ました。

ワープロデジタルカメラも登場し、さらにインターネットが開放されたため、
その融合が思わぬモノを創出し、今に至っていると思います。

一言で言えばSNSの登場です。

私達の私生活が決定的に変化して来たのは10年くらい前から始まったブログの登場だと思います。

コミュニケーションのあり方が変わって来たのです。

ブログは狭義の意味ではSNSではありませんが、広義の意味ではSNSとなります。

現在のブログ機能は当時に比べて格段に進歩しているため、
SNS的な使用の方がメインになって来ていると感じています。

いずれにしても、それまではコンピュータを持っていても、
あくまでもパソコン通信だったり、
あるいは自分のホームページを作って細々とした活動をするマイナーな趣味に過ぎませんでした。

デジタルカメラを買っても性能はそれほど大した事はなく、
写メが出来てもせいぜい友達とメール交換して遊ぶ程度のモノだったと思います。

ところがブログと言う個人で手軽に情報を発信出来て、
さらに簡単に他者と交流出来るツールが出現して、
大流行して行く事となり、一気に急速に私生活が変化しました。

今でもブログは個人の情報発信・交流において非常に重要な役割を担っています。

それに拍車をかけるように5年くらい前から典型的なSNSであるフェイスブックツイッター、LINEが登場し、
脅威的な速度で私達の私生活は変化してしまいました。

このデジタル技術の進歩とSNSの登場は私達の私生活の何をどう変えてしまったのか???

ちょっと考えてみると恐ろしい事実に気付きます。

先ずはカメラです。

フィルムカメラ時代の撮影は有料の現像と焼き付けがあったため、
無駄な撮り方など絶対に出来ませんでした。

当時、自分の食べている食事をいちいち撮影していたら余程の変人かと思われたでしょう。

今は食事から雲から街の風景から、ともかくあちこちで撮影している人がいます。

同じデジタルカメラでも写メ初期時代には余りいませんでした。

この現象は間違いなくSNSと写真が融合しているからに他なりません。

いくら無料で好きなだけ撮影出来たとしても、
分かち合える人がいなくては単なる独り善がりの退屈な趣味に成り下がってしまいます。

自分で撮影した写真を自分のSNSにアップすると、
そこでは友達がやって来て「いいね!」を押したりシェアされたりコメントが来て、
様々な感想や反応が楽しめる仕組みとなっています。

動画も簡単に撮影出来るようになり、
スマホならSNSへのアップもその場で出来るようになっています。

これらは人間関係と言う、私達の生活において最も重要な部分においても大きな変化をもたらしました。

SNSで自らの情報を発信して、同様に発信している他者と交流した場合、
30年前の人間関係とは比較にならないくらいの「密な」交流が普通に出来るようになっています。

文字だけではなく視覚的に理解する事が可能になっているからです。

さらに、ユーチューブともリンクさせた場合、
聴覚的にも理解する事が普通に行われています。

つまり、個人の嗜好が一発で理解出来る世界がSNSなのです。

ここで一例を挙げたいと思います。

私には小中学校時代、とても好きな女子がいました。

毎日毎日、彼女の事を見詰めて、彼女の事ばかり考えていました。

それから数十年が経過して、数年前にフェイスブックで再び交流するようになったのですが。

腰を抜かさんばかりに驚いてしまいました。

「彼女は野球が大好きだった」

この事実をずっと知らなかったのです。

彼女のフェイスブックの記事を見て初めて知ったのです。

当時私は一体彼女の何を見て、何を感じて好きだったのだろうか???

私は人間関係の基本を根本から見つめ直さないといけないと思い至ったのです。

非SNS時代においての人間関係は、実のところまるで相手を理解などしていなかったのだ、と。

仲の良い友達でも会うのはせいぜい週に1回くらいでしょう。

社会人になればそれでも凄く多い方だと思います。

ましてや家庭が出来れば数か月に1回もあれば相当多い方かと思います。

そこで2~3時間お酒を飲んで楽しい一時を過ごす・・・・・

これ自体は良いのですが、
「相手を理解する」と言う一点においてはほとんど役に立ちません。

お酒は確かに本音を引き出しますが、飲み屋では時間にも場所にも制限があり過ぎます。

むしろ無理だと言った方が良いかと思います。

現在においては、その人の本心はSNSで語られています。

SNSで交流しない限り、本当のところは分からない・・・・・

そんな気がしています。

さて、ここで最初にご紹介した本の折り返しに記載してある文をそのまま書きます。



・責任ある「大人の行動」とは

面倒だからネットには近づかない。あれはいい大人が相手にする世界ではない-
そう言ってネットの外の世界に留まることもできる。
しかし、それだけでは責任ある大人の行動とは言えないのではないか。(中略)
デジタル技術やネット社会はジャンクでありスラムだから近づかないというのであれば、
それに代わる行動様式をあなたはしっかり持っているのか、
デジタル技術なしで社会に対して責任を持てる行動をとれるのか、
従来のアナログ的手段だけでこれからの時代を正しく築いていけるのか・・・・・。
デジタル技術やネットが空気や水のようにあたりまえになっている若い世代は、
中高年世代に対してそう問うているだ。
(本文より)



つくづく思うのであります。

これからの時代。

人と仲良くしたいのであるのなら。

真に仲良く出来る友が欲しいと思っているのなら。

SNSでしっかりとした発言をして行かない限り、
非常に難しいのではないか?と私は感じています。

旧世代の人間は酒場で飲めば仲良くなれると思い込んでいたフシがあります。

でも実態は違います。

上司だから仕方なく付き合って苦痛の時間を過ごしていたに過ぎません。

今の若者は無意味な飲み会を嫌う傾向が著しく高いと感じています。

本当に楽しい一時とは、自分を理解してくれる友と飲む時です。

自分が理解できる友と飲む時です。

人と人がプライベートな場において仲良くなるための環境としては、
既にSNSの存在が不可欠となっています。

今の時代において恋人同士がLINEを開通させていないとするのならば。

そのお付き合いは昭和時代において電話を使用しないお付き合いと大差ないと思います。

つまり。

アンタ達は何をやっているの?と。

さて、当記事における問題の本質は文化になります。

この書籍では、私達日本人の文化は「侘び寂び」と言う質素で静かな境地、
足るを知り必要最小限のもので精神の深みを表現する、と書いています。

そしてこのような深い文化、大人の文化、高度な芸術活動はアナログ的な手段でしか実現できないと言う思い込みがあります。

果たしてこれは正しいのでしょうか???

実際のところ、デジタル技術は私達の文化に対してどう切り込んで来ているのか?と。

絵画の世界は未だに「実物を観る」以外に本当の感動は得られないので、
まだまだアナログが幅を利かせていると感じています。

ご紹介した本でも、微妙に否定的なニュアンスは感じますが、
おおよそ、その通りである旨が書かれていました。

文学においては紙の書籍でも電子書籍でも内容は同じ文字だけなので大した変化は起きません。

デジタル技術の進歩が非常に厄介な事態をもたらしているのは音楽の世界だと私は感じています。

この書籍でも頁を割いて高度に論じていました。

結局のところ音楽とは何か???

音楽的感動とは何か???

この問題にデジタル技術は容赦なく切り込んでしまい、
音楽の本質を浮き彫りにして来ています。

この本の著者はこう言います。

「生演奏がいいと言われますが本当でしょうか?」と。

高度なデジタル技術で録音(と言うよりはデジタル技術による編集と言うべきか?)された音楽を聴き慣れていると、
実際のライブでは音の粗さが目立ってしょうがない、と書いています。

この事は、演奏家の人には悪いのですが、私もよく感じています。

クラシックのライブにおいてはミスタッチがあるとドキリとしますし、
それ以外の音楽では、技巧的な未熟さが目についたりして、
上記の意見を理解出来てしまうのです。

とは言え。

この問題提起は音楽の本質を突いて来ていると私は思います。

音楽的に感動するとは一体どういう事なのか???

ミスタッチが無く技巧的に完成されていれば最高の音楽的感動が得られるのでしょうか???

アナログ時代において最も流行したのはオーディオです。

優れたオーディオシステムを揃えて、オーディオルームで完全な音を聴くのが素晴らしいと思われていました。

それをしていたら音楽的感動を得られていたのでしょうか???

私にはそうは思えないのです。

確かに、私の場合はロジャースのスピーカーやクォードのアンプを鳴らした時の感動はありました。

見事な音だ、と感じていました。

しかしそれは間違いなく音楽的感動とは別物です。

音質の問題に過ぎません。

ではライブでなくてはダメなのか?と言うとそうでもありません。

それでもライブの演奏は非常に重要であるとも感じてます。

音楽とは音符だけで構成されているものではない、と。

演奏家達の目配せや譜面をめくる音、鑑賞者の溜息などが混然一体となって構成されている、と。

今の私は音楽的感動をこう捉えています。

フラメンコの根本理念が一番的確に音楽の本質を捉えている、と。

「ドゥ・エンデの神が宿る時」

これこそが、音楽的感動の本質なのではないのか?と。

私達が本当に何かに感動した時、
背筋がゾクッとする時があるかと思います。

この時、スペイン人達は、
「ドゥ・エンデの神が大地から入って来ている」と表現します。

非常に優れた演奏家がノリに乗った演奏をした時にのみ、
ドゥ・エンデの神が大地から身体に入り込み、宿るとされています。

この時、人は最上の音楽の喜びを知る、と。

スペインの大詩人ガルシア・ロルカが語っています。

ある時、パリで大成功した20世紀最大のフラメンコ歌手と言われた女性が故郷のスペインに戻り、
酒場でコンサートを開きました。

皆が聴き入っていた時、一人の酔っぱらった老人が言いました。

「はて???ここはパリなのか???フラメンコってそんなにシャレたものだったのか???」と。

激怒したその女性歌手。

そばにあったワインを飲み干した途端に歌い出しました。

それまでとはガラリと違う唸り出すような声と強い曲調で。

その時、その場にいた人達は全員感動のあまり胸をかきむしったと偶然その場にいたロルカは書いています。

そして「間違いなくあの時、ドゥ・エンデの神が宿っていた」と。

それは一生のうちにそう何度も体験できるようなモノではないと思います。

それでも私達は心の奥底のどこかでソレを求めているのだと思います。

だからこそ音楽を聴き続けるのだ、と。

音楽的な感動とは。

非常に激しく、人を狂気に導く神がかり的な世界なのである、と。

デジタルでどうこう出来るような世界ではない、と。

少なくとも私はそう思っております。

いずれにしましても。

問題提起と言う意味において、
デジタル技術の今後を考えたい人にとっては、上記の本は大変お勧め致します。

終わり