教育の基本:子供の友達の選別について~文化。そして学力と教養と向上心こそが決め手となることを思い知るべき~

教育の基本:子供の友達の選別について

~文化。そして学力と教養と向上心こそが決め手となることを思い知るべき~


例えば、我が子が小学校や中学校に入学したとする。

あるいはクラス替えがあった時。

「こんな友達が出来たよ♪♪」と子供が語った時。

親としては「どんな性格の子か?」「どんな家庭環境の子か?」「どんな成績の子か?」が、
とても気になるはずだ。

はっきり言ってしまうと、まともな親であるのなら、
上記の3つを気にして、それ以外は余り気にならないはずだ。

家に遊びに来た時に「まあまあ普通の子」であるのなら問題は無いと言える。

しかしながら。

理想は絶対的に持っているはずだ。

性格が良く、裕福で、親の社会的地位も高く、成績は抜群で、スポーツは万能・・・・・

その上、美人美男・・・・・

まあ、余りにも凄過ぎた場合は不安になってしまうだろうが。(笑)

いずれにしても我が子を引き上げてくれるような友達を欲していると思う。

では逆にこんな子が家に遊びに来たらどう思うだろうか???

目を合わさない。礼儀を知らない。どこかおどおどして、そのクセ図々しい面を感じる。

そして何か陰で絶対に悪い事をしていそうなタイプ。

直感的に邪悪なモノを感じた場合、もし放っておけば。

間違いなくいずれ自分の感じた直感以上の悲惨な出来事が起こると考えて良い。

実際、私はその種の場面に何度となく遭遇して来た。

「子供の友達には選別が必要」

これは、惨いようだが絶対に必要な事だ。

親として、子供を選別する作業は嫌だろうし、キツい。

そして相手の子供だけでなく相手の親まで選別してしまう作業となるため、
非常に厄介な問題となる・・・・・

この感覚は現在推奨されている平等教育とはかけ離れたモノだ。

しかし、やらなければ我が子はほぼ間違いなく潰されてしまう。

そして同様に考えなくてはいけないのは、我が子と自分の家庭のレベルだ。

我が子はどんなレベルにあり、どういう風にしたいと思っているのか???

そして今の家庭環境はどうなのか?と。

子供の成績に無関心で、酷くてもまあいいか?で済ますような親は。

どんどん落ちて行く。

成績の悪い子は悪い子同士でつるむようになって行く。

もう小学校の高学年くらいになると明確な棲み分けが出来て来る。

中学に入ったらほぼ確実に「層」が出来てしまい、
一旦その「層」に属してしまったら抜け出すのは容易ではない。

ここで自分の体験談を書いておきたい。

当ブログがまだ「中学受験とアウトドア」と言うタイトルで、
教育記事を専門に書いていた頃からお読み頂いている方はご存知かと思うが・・・・・

私は片親家庭として我が子を育てている。

保育園時代もそれなりにキツかったが、
幼児の頃はまだそれほど明確な「層」は形成されないため、
何とかかんとかヤって来れた。

そして、保育園と言う場所は、特に公立の保育園の場合、
片親家庭や共稼ぎの家庭が多く、そもそもが・・・・・

こう言っては何だが・・・私も含めロークラスのケースが多い。

そして小学校へ入学すると・・・・・

ここにおいて明確な「層」が形成されて来る。

横浜市の場合、非常にはっきりと二分される。

「勉強する層」と「勉強しない層」となる。

中学受験が1つの分かれ目となって来る。

最上流の層はそもそも公立の小学校には来ない。

私立の小学校へ行く。

公立小学校の中においての上流の層は間違いなく中学受験をする。

受験をしなくても高度な勉強を戦略的に仕掛けている親はいるにはいるが、
極々少数であることを知っておくべきだ。

さて、片親家庭の子・・・・・

大きなハンディキャップを背負わされている。

小学校と言うまだまだ親子の絆が要求される場所において、
親子レクリエーションだの、運動会だの、保護者会だの。

そもそも片親家庭の子は心に大きな傷を負っているのは間違いない。

どうなるのか???

ロークラスの子供達の標的とされる。

同じ層に属させて、その中においてのイジメの標的にしようとする。

しつこい誘いが毎日のように来る。

親が放っておけば、もう小学生のうちから街を徘徊したりするようになる。

「みんな仲良く」などと耳触りの良い言葉に酔いしれて、
我が子をその種の子供達と遊ばせた場合、取り返しのつかない事態へとなって行く。

親は。

断固として拒絶しなくてはならない。

学力や教養、そして向上心と無縁の子やその親は、断固として遠ざけなくてはならない。

そして。

学力と教養と向上心こそが決め手となることを思い知るべきだ。

実は、私の家庭は差別されて来た。

片親家庭であると言うだけで、少なくとも上を目指して努力している家庭からは疎まれていた。

寄って来る子は、学年でも問題児ばかり。

今振り返ってみると・・・恐ろしい話ではあるが。

人生を台無しにされてしまった子が相当数いる。

あるいは他の子の人生を台無しにした子もいる。

私は当初、環境を軽視していた。

しかし、恐ろしい事態が小学校低学年時代に起こり、
それまでの私の価値観を一気に変えさせられる状況となった。

このままでは潰される。

選んだ道は中学受験だった。

小学校高学年になると週に4日は塾となる。

他にピアノと水泳を習っていたので、実質上、他の子と遊ばせるのは不可能な状況となる。

これは強烈な我が子の防衛として役立った。

そもそも受験する子は小学校の子とほとんど遊ばない。

遊んでいる余裕など無い。

明確な「層」が形成される小学校高学年になると。

2つの層の間の学力差は非常に大きなモノとなる。
 
そして、高度な学力を有した者は尊敬の対象となる。

この段階になって、やっと私の家庭は差別対象ではなくなった。

「受験を目指して努力している層」として、「その層」の子と親との交流が出来るようになった。

中学受験を終え、何とか私立伝統女子校へと入学した娘。

ここでは今度は別次元の世界が展開して来る。

「裕福で教養ある層」がほとんどなのである。

親も教養ある人が多い。

社会的にも驚くような地位にある人が普通にいる世界。

このような世界に貧乏な我が家庭が属してしまった場合、どのように振る舞うべきなのか???

疎まれない方針とは???

もちろん、学力も今まで同様に大切だ。

圧倒的な学力の前に人は屈服する。

尊敬の念を抱く。

しかし、それだけでは不十分だ。

性格が良いのは当たり前である。

悪ければ誰にも相手にされる訳はない。

中学時代以降、それからの人生において、例え貧乏でも上を目指したいのなら。

私は絶対に「文化と関わるべきである」との信念を持っている。

文化とは。

人類がその社会の中で生み出して来たモノの総称である。

中でも音楽や絵画、彫刻、文学などの芸術分野がその典型だ。

特に芸術作品との関わりは圧倒的な威力を発揮する。

何故今、私は娘と共に美術館巡りをしているのか???

その答えは上記を読んで来て頂けたら容易にご理解頂けるかと。

差別をされ蔑まれて来た者の壮絶な反逆なのである。

人は芸術の前でのみ、言語、貧富、学力を超越して平等となる。

研ぎ澄まされた感性の前でのみ人類は初めて平等となる。

他の分野では有り得ない世界だ。

そして、この文化の世界こそが、富も教養も得た者達が最終的に追い求めて行く世界なのである。

想像してもらいたい。

もし高校生になった我が子に友達が出来たとする。

「今度、友達と出掛けて来る」と言ったら、女の子を持つ親は相当心配するはずだ。

どんな子とどんな場所へ行くのだろうか?と。

その時、こんな回答が返って来たらどう思うだろうか???

「○×さんと国立西洋美術館ラファエロ展を観に行く。誘われたから」・・・・・

素敵な友達を持ったね、と喝采を我が子に送るだろう。

少なくとも私は喝采を送る。

これが私の価値観であり、人生観であり、教育観である。

上を。

もっと上を。

もっと上の学力ともっと上の教養と。

そして文化を。

他を圧倒するまでの世界の中で楽しんで行ければ、と。

このような状態になれば、良い友達は向こうからやって来ると私は思っている。

終わり