エロティックに、バッハ

※ 当記事は以前にアップした記事を別の視点から書き直したものです。
 
今から30年近い昔。
 
まだ20代の若かった頃。
 
何の気なしにあるエロビデオを借りた。()
 
しかし内容に度肝を抜かれた。
 
先ずは出だしの音楽に。
 
原曲はヴィヴァルディ、調和の幻想より
「協奏曲第10番 ロ短調 4つのヴァイオリンのための」
 
それをバッハが4台のチェンバロのための協奏曲に編曲したもの。
 
終始、この短調の悲しげなメロディが激しく流れていた。
 
季節は夏。
 
身なりの良い美しく知性的な女性が西洋館に入って行く。
 
最初の扉を開けると自分がいる。
 
だが、それは性の快楽に溺れている自分。
 
驚いて部屋を出る。
 
続いて次の扉を。
 
するとさらにエロティックな自分を見てしまい・・・・・
 
と言った感じの内容だった。
 
このエロビデオの監督、素晴らしい。
 
選曲が絶妙だ。
 
快楽的なイタリア人であるヴィヴァルディ。
 
しかし編曲は厳格なドイツ人のバッハ。
 
私達の生活には厳格な理性が求められる。
 
それは性のアプローチと言う本能の場面にすらも。
 
けれども私達の理性とは脳の薄い表面でしか司られていないのである。
 
脳のほとんどの部分は本能や情動と言った生命活動に直結したもので成り立っている。
 
そして今の私は。
 
人間の幸福は本能の充足が無ければ有り得ないと言う立場を取っている。
 
理性の生み出す如何なる文化も「性の充足」と言う行為が無い限り、
全ては虚構のものである、とすらも。
 
高度な文明・文化も・・・それらは本能の充足があって初めて機能する、と。
 
年を取ってしまった人間は。
 
あるいはモテない人間は。
 
「性」と言う極めて差別的で厄介なるものを前にした時。
 
理性により「悟ったふり」をする。
 
しかしながら。
 
本質的なところにおいて。
 
如何なる宗教も哲学も思想も「性の情動」を封じ込める事は不可能である事を本能的に知っているはずだ。
 
嘘をついてはいけない。
 
自分の真実を見詰める勇気を。
 
だからと言って道徳・倫理・法律を破ってまで快楽を貪れとは言わない。
 
でも理性の仮面をかぶったまま老いて行くのは余りにも寂し過ぎはしないか?と言いたい。
 
一体自分は何がしたいのか???
 
理性の扉を打ち破った時。
 
恐ろしいまでの激しい情動と快楽の世界に震えるが良い。
 
理性による制御を外し、性の享受を。
 
その先には儚い人生の根本的な意味がある、と今の私は感じている。
 
老い、そして死を目前とした時に、悶えている自分がいる。
 
けれどもそこから逃げたくはない、と思っている。
 
終わり