防衛問題的イジメの考察

戦後民主主義
この定義は極めて曖昧であるが、
いくつかのはっきりした傾向がある。

「こちらが平和を願ってニコニコしていれば問題は起こらない」

「武力を持たなければ攻撃される事はない」

「話し合いで全て解決できる」

多かれ少なかれ、特殊な宗教や政治信念を持つ人以外の日本人は、
こうした考えを有していると思う。

かく言う私も、そんな考えを持って、娘を公立の小学校に入れた。
娘は体格は悪くは無いが、良くも無い。
非社交的である。
特に攻撃的と言う事はない。
そもそも女の子である。

待っていたのは「壮絶なイジメ(犯罪と言って良い)」。

盗まれる、殴られる、蹴られる、暴言を吐かれる・・・
挙句に・・・

残念ながら、人間を集まりとして見ると、
何十人かに一人の割合で「攻撃的人間」が出てくる。

こういう輩は、相手が大人しかろうが、
優しかろうが関係なく攻撃を仕掛けてくる。

しかも、見事なまでに相手を識別してくる。
決して反撃されそうな相手には攻撃を仕掛けない。
常に獲物を探している。

さて、かつて安部公房と言う作家が実に面白い人間観察理論を展開していた。

「なわばり理論」
人間は個人として見ると、非常に優れた人物がいる。
しかし、集団になればなるほど、低脳化する、と。
「国家」レベルになると、大体幼稚園児並になる、と。

なるほど、国家間の闘争を見ると、
「オマエの石油よこせ」とか、
「オマエのやり方きにくわない、ぶっ飛ばす」と言うレベルである。
完全に当たっていると思う。

そこで先程の「攻撃的人間」に対する対処法だが、
残念ながら「力」で抑え込む以外に方法はない。
「話し合い」は無駄である。
余計な犠牲者が増えるだけである。

もし、小中学校においてイジメを受けた場合、
その度合いを正式に評価する必要があると思う。

まあ、大抵の場合は先生の指導で済む場合が多いが、
不幸にして相手が「攻撃的人間」だった場合は・・・

今の公立小中学校には残念ながら解決能力は無い。

「環境を変える」などの自らの防衛措置が望まれる。