超詳細な感想 : 映画「麥秋」小津安二郎監督

超詳細な感想 : 感動の仕方がハンパないので改めて記事にします

映画≪麥秋≫

1951年 日本



上映時間:124分

あらすじ及び感想:

鎌倉と東京が舞台になっている。

ある意味、当時から今に至るまでの首都圏における理想的な住環境と言える。

また、主人公一家の間宮家の長男の職業は医者であり、
その父親は学者である。

北鎌倉で暮らしている。

1950年頃の日本。

まだまだ終戦後間もないので現代に比較すると裕福には全く見えない。

しかしお金に困っている訳でもなく、
むしろ当時最高級お菓子だったショートケーキを食べたり、
お爺さんのために歌舞伎座の桟敷席で観劇させてあげたりしている。

余談:1950年頃の歌舞伎座と思われる映像が出てくる。
   しかし映されるのは観客席のみ。
   歌舞伎役者の声だけが聞こえている。
   歌舞伎好きなら絶対に見たくなりイライラするだろう。(笑)

また休日に老夫婦そろって博物館に行って楽しむなど、
かなり教養のある家庭である様子も描かれている。

間宮家は取り敢えずは平穏で幸せに暮らしている。

しかし、ここで私はちょっと待てよと思って母に聞いてみた。

私の母はこの映画の公開時に観ていたようなので、
「もしかしてこの映画で描かれている家庭は当時の一般家庭としては最高レベルではないのか?」と。

すると私の母は「大変な憧れをもって観ていた」と断言。

やはり。

この映画に出て来る家庭は1950年当時としては、
収入、社会的地位、教養等々が最高だったと思って観るべきであろう。
(財閥などを除いた、あくまでも一般家庭レベルとしては)

その非常に恵まれた家庭の中がどのような事態になるのかが描かれていると言っていい。

家族が望まない人と娘が結婚してしまうと言う事態が、
一体どれほどの衝撃を家族に与えてしまうのか?、と。

前述したように、長男は医師で結婚し小学生くらいの男の子2人がいる。

医師の父親も学者で、その老妻も元気で同居して暮らしている。

唯一の気がかりは28歳で独身の紀子(原節子)で、
売れ残っているのを家族は皆心配している。

紀子は都心の会社に勤めるOL。

女学校時代の友達とも仲が良く、
しばしば4人で会っているも、
2人は結婚して2人は未婚。

最近は結婚組と未婚組に分かれて、
結構な議論になってしまっている。

1950年の日本人女性も2018年の日本人女性も、
結婚組と未婚組では相容れないものがあり、
いくら学生時代に仲が良くても段々と疎遠になってしまう様子が見事に描かれている。

また、子供達は生意気だったり剽軽だったり鬱陶しかったり、
この辺も1950年と2018年の今と大差ない。

子供絡みで思わず笑ってしまったシーンがある。

夜、大人達がケーキを食べて談笑している。

しかし全員が突然サッとケーキを隠す。

何で?と思ったら寝ぼけ眼の子供が登場。

大人達が何かを食べているとふんで来たが何もなく、
そのままトイレに行ってしまう。

あるいは子供らしく突然「ウンコ!」と叫んでみたり、とか。

子供ってヤツは今も昔も変わらないのだ、と思い知らされる。

こういう何気ないシーンが結構笑えたりする。

そんな折、とても良い縁談が紀子の勤務先から持ち込まれる。

商社の常務で、やり手でカッコ良く良家の出身でもあり申し分ない相手であると言う。

だが、年齢が40歳と知って家族は落ち込んでしまい、
最初は乗り気だったのだが、兄を除く皆が反対に回ってしまう。
(念のため:1950年の日本人男性の平均寿命は55歳)

紀子自身はニコニコしているだけで本心を言わない。

それまでの明るく賑やかだった家族に不穏な予兆。

それでもお見合いの話は順調に進んで行き、
興信所の探偵が近所に調査に訪れるほどの段階になってくる。

だが。

最終的に、突然、紀子が選んだ相手と言うのは。

幼い頃から知っている、近所に暮らす、奥さんに先立たれてしまった子持ちの男。

医師ではあるが秋田県に行くのが決定している。

鎌倉の家と都心の職場を離れてその男と男の子供とその母親(姑)と共に秋田県で暮らし始めるのを決意した紀子。

あまりの突然の出来事に家族は全員呆然自失状態。

「こんな事なら40歳のお見合い相手の方が遥かに良かった」と悲しむ。

掲載した動画。

このシーンだけを見ると単純にお爺さんが踏切で待っているだけにしか見えないだろう。

だが、この裏事情を知った時、
お爺さんの表情が、娘の将来を深く心配している父親の顔をしているのが分かる。

我が子の結婚が、まさかの展開を見せた時に親は一体どんな表情をするのだろうか?

娘の結婚生活では間違いなくとんでもない苦労が待ち構えているのだ。

それでも紀子は「そんなの平気よ」と笑う。

このシーンにおいては何故か私はユーミンの「恋人はサンタクロース」と言う歌を
思い出した。

1950年の女性も、2018年の女性も、
結婚を決意した女と言う存在は、未来とは輝いているのだとしか思っていないように感じる。

いや、不安はあるのかも知れない。

密かに泣くシーンがあるからだ。

しかしこれは親が反対していることを知っている涙のようにも見える。

原節子の演技においては、
「決意した女は揺るがない」と見せつけているように私には思えた。

それでも人生経験の深い親は嘆く。

小津は、そんな様子を淡々と淡々と描いてくる。

絶叫シーン、号泣シーンなど見せない。

泣く時は密かに静かに泣く。

日本人の恋愛および結婚とは、西洋とは明らかに違うと思う。

この映画では取り立てて酷い悪人は1人も登場しない。

むしろほぼ全員善人と言える。

嫁と姑、嫁と小姑の仲でさえ悪くない。

だが家族はずっと幸せではいられない。

ずっと一緒にはいられない。

それでもお爺さんは言う。

「きっとまたみんな一緒に暮らせるさ」と。

だがそれは年寄りの儚い願望に過ぎない。

若い女は飛び出すことを既に決意している。

もう帰って来ない可能性の方が遥かに高い。

人は様々な出来事の中で翻弄されながらも、
悲しみを抱えながらも、小さな喜びと共に淡々と淡々と時は流れて行く、と知る。

そうして観ている者はラストシーンの近くでふと気付く。

家族に徐々に明るさが戻りつつあるのを。

さらに思う。

この直面している問題はそれほどの不幸ではないのではないか?と。

むしろ強い意志と勇気さえ持っていれば幸福なのではないか?と。

何とも言えない幸福感と何とも言えない不幸感。

この作品では本当の意味での異常事態も一切ない。

不倫だとか死だとか殺人だとか全くない。

しかし子供、若者以外に老いた者達がかなりの頻度で登場する。

若さと老いの対比。

家の中で賑やかに友達と遊ぶ子供達。

その同じ家の中には耳がほとんど聞こえないお爺さんがいたりする。

若と老。

動と静。

暗示される産と暗示される死。

こう言った対立概念が複雑に交錯しながら物語は進行するのだ。

淡々と。

小津作品のこの淡々さは脅威的ですらある。

自分の感性や能力を遥かに超えたところにある人生観、哲学、宗教観を予感させながら終わる脅威的な映画であると思った。

終わり


余談:

今から30年以上昔のこと。

私の妹はロンドンで暮らしていた。

同じフラット内に住んでいた友達の日本人女性がある日突然泣きながら妹の部屋に来た。

彼女は小津安二郎の「東京物語」を観て大感動したと言ったそうだ。

あんたも見なよ、と。

その時の妹はヨーロッパ一辺倒だったので、
ちょっと冒頭を見ただけで「これはダメだ」と思ってしまい、
小津作品はそれ以降全く鑑賞していなかった。

ところがここへ来ての兄妹での小津作品鑑賞大会。

妹は言った。

「彼女、20代で小津作品を素晴らしいと言って涙を流していた。
 あの感性の鋭さはとてもではないが敵わない。」

私もそう思う。

小津作品の鑑賞には人生経験が必要だと思う。

淡々とした時の流れの中で、無常だとか、変わらない人間の本質だとかに想いを馳せなくてはならないからだ。

多くの外国の映画関係者は「小津安二郎」こそが最高と言う。

まさかこんな映画が1950年代の日本にあったとは今更ながら腰が抜けるほど驚いている。



さらに余談:

2018年の日本。

手にはスマホがあり、家にも職場にもパソコンがある。

一瞬にして世界と繋がれるインターネットと、SNSと呼ばれる新しい空間が出現している。

新幹線は日本中を超高速で走り回り、航空機網は世界中に張り巡らされていて、
短時間で日本はおろか外国にまで行ける世界になっている。

医療も格段に進歩し平均寿命は近い将来100歳になると言われている。

高度な社会福祉もそれなりに機能し、
かつてあった酷い差別もまだまだ問題はありながらも解消に向けて進んでいる。

しかしどんなに文明が進もうとも、
親は子供の成長や恋愛や結婚に一喜一憂し、
自らが老いて死を目前としてもまだ心配する。

このような人間の本質はこれからも変わらないのだろうな、と思うし、
変わってはならない、とも思う。