今の政治を落語で語ってみる

古今亭志ん朝の落語「首提灯」を聴いていたら、
これは今の日本の政治状況にピッタリだと思い切り感じたので記事にしてみたい。

この落語は江戸っ子が最高だと思い込んでいるヤツが、
田舎侍に徹底的に絡んだ挙句、
怒った侍に見事な腕前で首を斬られてしまう噺となる。

だが、余りにも見事な腕なので首は繋がったまま。

斬られた当人も気付いていない。

喋ると空気が漏れたり、首が曲がってくるので変だなとは思う。

最終的に、自分が首を斬られていたことに気付きはするが、
火事が起こり、居ても立っても居られなくなり、
見物に出掛けて行く。

そうして火事をよく見るために自分の首を手で持ちあげて見る、と言うオチ。

さて。

今の日本はこの時代とはまるで違っていて、
民主主義の世の中となっている。

民主主義の政治とは「政策が、良い理論か悪い理論かは問われない」と言う事実がある。

理論的に正しいのかどうかではなく、
選挙で多数を取った政党の政策が実施されると言う大原則がある。

それが民主主義の大原則と言ってもいい。

つまり。

どんなに偉そうな事を言っても、
票が集まらない政党や政策はクソ扱いされてしまう現実がある。

また、政党や政治家に至っては、
振る舞い1つで「首を斬られてしまう」ことは多々ある。

だが当の斬られた政党や政治家自身とそれを熱狂的に支持する者達は、
この落語の江戸っ子と同様に自分が既に首を斬られたことに気付けない。

空気の漏れた声で喋ったり、
首の位置を変えてみたり。

それはそれは滑稽な様子である。

周囲の人達は大笑い。

けれども当人とその支持者達は決して気付くことは出来ない。

憐れである。

が、これは日本国の命運を大きく左右する一大事なのである。

笑い事では済まされない。

終わり


余談:

先日、電話でバリバリの右翼の知り合いと話していたら驚くべき事を口にした。

「オレはね、人間的な理想として正しいのは間違いなくリベラル派だと思う。
 でもね。人間は理想的な存在とは程遠いから支持は出来ない。」

個人的な見解としては・・・その通りだと思っている。

そして・・・斬られていることに気付いていない人達と言うのは・・・

私は健全なリベラル派の復活を心から願っている。

健全な政治とは、健全な政策とは、保守とリベラルの激論に晒されない限り有り得ないと思っているから。