今はチケット販売や季節のイベントなどの情報誌を出版していることで有名な「ぴあ」だが、
昔はその名も「ぴあ」と言う週刊誌があり、
むしろこの週刊誌こそが「ぴあ」の代名詞だったかと思う。
映画やコンサート、演劇他、色々なエンターテイメント情報が得られた。
その後「ぴあ」は隔週刊になり、
さらにとうとう休刊してしまった。
ネット時代の到来で、この種の情報はスマホで無料で入手可能になったことが大きいと言われている。
今や週刊文春や新潮ですらも、
他の有名雑誌も全て含めた上で、
スマホの有料アプリを登録したら月々僅かな金額で全部読み放題が出来る時代にもなっている。
私自身も現在凝っているのは「歌舞伎」「落語」「美術」なので、
その種のサイトに登録して無料で色々な情報を得られるようにしている。
凄く便利な時代になっていると思う。
最近つくづく思うのだが。
どうも以前の「ぴあ」があった時代のような「すっきり感」が無い。
スマホさえあれば、恐ろしく細かい情報をスピーディーに得られる。
これはかつての時代には全く存在しなかった最新の情報収集機器なのだが。
なんか微妙に不安になると言うか。
そして実際に不安な事も多発している事実に最近気付いた次第なのである。
スマホのみの情報収集には重大な落とし穴がある、と。
例えば、私にはこんな事態が多発している。
テレビ番組で歌舞伎公演があった場合、
あるいは役者へのインタビューなどの番組を見逃してしまうことが結構頻発している。
スマホでは恐ろしく細かい情報を得ているのに何で見逃してしまうのかな?と。
最近、連続して買ってみた落語などの演芸月刊情報誌「東京かわら版」を読んで即座に理解できた。
スマホで得られる情報は、情報発信者がダイレクトにしている点に問題がある、と。
分かり易い具体例で言うとこういう仕組みだ。
例えば、歌舞伎座で歌舞伎を観ようとした場合、
「歌舞伎美人」と言うサイトをリンクに貼り、
さらに登録した場合、メールマガジンも送ってもらえる。
もちろん無料で。
この場合、歌舞伎座の情報を得ると言う一点においてはほぼ無敵になる。
しかし、歌舞伎とは歌舞伎座だけで構成されている訳ではないのである。
歌舞伎座が発信してくる情報は当然歌舞伎座限定の情報だ。
(実際には松竹の情報と言えるが)
そこには国立劇場や浅草公会堂他の歌舞伎情報は載っていない。
それらの情報を得たい場合はそれぞれ個別に登録する必要がある。
こうなるとその「個別」がとんでもない量になったりする。
また、テレビ番組で言えば、
もちろん私もテレビ番組サイトに登録していて、
キーワードやジャンルを入れて特定の番組が表示されるようにしている。
しかしこれが全然完全とは程遠い状況だったりする。
漏れが必ずある。
しかも1つや2つではない。
何故こんなことが多発するのかな?と思い考えてみた。
分かり易く言うとコンピュータ系のデジタル情報の落とし穴「検索」だと考えている。
つまり、おおよそこんな事情による。
例えば、分類項目に歌舞伎というジャンルがあればいい。
けれども演劇と言う大雑把なくくりしか無かった場合、
出てくる情報はとんでもない量になってしまう。
歌舞伎が好きなので絞り込み検索で「歌舞伎」と言うキーワードを登録したとする。
するとかなり上手く情報収集が出来るのだが、
ここに罠がある。
「歌舞伎関連の番組は必ずしも歌舞伎と言う言葉が含まれている訳ではない」
例えばこんな番組タイトルは普通にある。
「坂東玉三郎の軌跡」とか。
こうなると検索にヒットしない。
これが非常に厄介なのである。
もう1つ、今度は落語で例を挙げておきたい。
寄席に行って落語を聴きたいと思った場合、
スマホで各寄席のサイトを登録したり、
あるいは落語協会や落語芸術協会、円楽一門や立川流も登録するだろう。
けれど前述したように、それらのサイトから発信されてくる情報は全てその情報発信者の情報だけだ。
例えば、鈴本演芸場のサイトを登録しても、
そこには新宿末廣亭の情報は載っていない。
つまり歌舞伎の時の同様に個別に当たるしかない。
これは恐ろしく面倒臭い作業となる。
ところが。
写真に挙げた「東京かわら版」。
これを読むと一発で、今月のそれぞれの寄席に誰が出演するのかを一気に閲覧できてしまう。
スマホの情報とは決定的に違っている「閲覧性」が極端に優れているのである。
寄席情報だけでなく、落語関連のテレビやラジオ番組まで、
そこには落語の派閥を一切考慮などしていない、
落語を聴きたいお客さんの心をしっかりと掴んでいる情報が満載している。
優れた編集者が、読者は何を知りたいのかをしっかりと把握して編集された情報を流してくれた場合、
これはスマホの比ではない決定的に大切なものとなる気がしている。
スマホを使用していると自分が情報強者になった気になるのは確かだと思う。
便利なのも確かだと思う。
私自身、こんな風に書いて来ておきながら、
スマホを手放すつもりなど毛頭ない。
しかしながら、これだけは言える。
落語を今後も聴き続ける限り、
「東京かわら版」を買い続けるだろうな、と。
この小さな情報誌がもたらす「閲覧性」は、
皆が高度に洗練されたと思い込んでいるネット情報を遥かに上回っている、と。
スマホ情報の罠から一歩抜け出て、
改めて優れた情報誌の意味を考えると、
趣味の世界においては月刊の情報誌の存在は不可欠なものだと分かる。
よくよく考えると、
私のメインの趣味は天体観測なので、
今は時間的制約でほとんど出来ないでいるが、
全盛時代は当時あった月刊誌3冊プラスアルファを必ず購入していたのを思い出した。
ネット情報だけに接していると思わぬ落とし穴がある、と思い知らされた。
終わり