人間の幸福について考えさせられた落語「芝浜」

昨日の浅草演芸ホール、昼の部のトリは林家種平で「芝浜」だった。

珍しく最初から「芝浜」をやると決まっていた。

これは人情噺の部類に入り、お客さんをドカッと笑わすと言うよりは、
しんみりとした笑い、もしくは泣かせる噺になる。

ストーリーは、酒好きの魚売りの亭主がある日、女房に間違えて早く起こされてしまい、
仕事に行くもまだどこも開いていない。

仕方ないので芝浜の海を歩いていたら財布を拾う。

中には50両(額は落語家によって違って演じられるようだ)が入っていた。

この金額は一生遊んで暮らせるくらいの額となる。

そこでその魚屋は女房に「これからは贅沢ができる」と言い、
隣近所の人を集めてどんちゃん騒ぎをする。

だが、目覚めると拾ったはずの財布がない。

しかし、どんちゃん騒ぎの後だけはある。

結果的に残ったのは多額の借金だけ。

嫌な夢を見てしまったと旦那はそれから心を入れ替えて、
酒を断ち、仕事に精を出す。

それから3年の月日が流れる。

元々腕は良かった魚売りだけに、
今や店を構えて店員も雇い、大繁盛している。

借金も返して、順風満帆の人生を歩んでいる。

そんなある夜。

女房が旦那に襟を正して告白する。

実はあの財布は現実だったのだ、と。

けれども直ぐに酒を飲むんだと言われ、
この金は間違いなく私達の人生を破壊すると思い、
大家さんに相談したと言う。

もし、拾った金に手をつけてしまえば罪人になってしまう。

結果的にお金はお上に預け、旦那には拾ったのは夢だったという事にした。

そして年月が経ち、お金の落とし主は現れず、
堂々と旦那のものにはなったが、
生活が順調だったため言い出せないでいた、と。

しかしもう今日こそはと思って告白したのだと女房は言う。

旦那は怒りかけるが、思い直す。

確かに女房の言う通りだ、と。

あのままお金を懐に入れていれば間違いなく自分達は破滅していただろう、と。

女房にお礼を言い、円満に噺は終わろうとする。

女房は断っていた酒を旦那に勧める。

旦那は酒を美味しそうに飲もうとするその直前。

こう言って噺は終わる。

「よそう。また夢になるといけねぇ。」

さて、この噺は、ここ10年くらい私が重宝している心理学の幸福の原理で考えると、
実に上手く出来ているのが分かる。

人間の幸福には3種類あると言うものだ。

・パワー動機(勝ち負けにこだわり、勝った時に得られる幸福感)

・達成動機(明確な目的を持ち、それを達成した時に得られる幸福感)

・親和動機(人と仲良くした時に得られる幸福感)

人間の幸福とはこの3つのうちのどれかであり、
それぞれは独立していて代替は利かない。

つまり、人間が本当に幸せになるためには上記の3つを全て満たしていなければならないことを意味する。

また、1つでも欠けていたり、過剰に持っていてもアウトとなる。

これはかなり大変だ。

幸福な人間とは、学業や職業で成功していて、お金持ちで、自分のやりたい仕事や趣味を持ち、
さらに親や子供、妻、親戚関係、友達関係など全ての人間関係も良好でなくてはならないのを意味する。

だからこそ、不幸だと思っている人は相当多い。

お金とはパワー動機の象徴であると見做せる。

お酒への考え方は色々あるが、パワー動機に付属する快楽を人にもたらすものと言えるが、
反面、親和動機を破壊するものとも見做せる。

友達と酒ばかり飲んでいたら間違いなく女房や子供との親和動機は満たせない。

親和動機には優先順位がある。

まかり間違っても、隣近所の人だとか、友達を優先してはならない。

一番は親子関係であり、夫婦関係だ。

続いて兄弟や親戚などの血族が続く。

酒に溺れた場合、親和動機で一番大切な部分を破壊してしまう。

つまり、お金がどんなにあっても幸福になれない人とは、
ここを混同している人とも言える。

親和動機を破壊してしまう人、と。

落語「芝浜」はこの点を見事に突いてくる。

人が幸せであるとはどんな状態なのか。

とても深く考えさせられた落語だった。

また、歳を取った中年が聴いた場合、堪らないものがある。

これこそが落語の醍醐味なのか、と思わせられた。

とても良い噺を聴けた。

終わり