生の緊張感

イメージ 1

例えば最新型のiPodさえあれば家には置き切れないほどのCDに匹敵する曲を軽々と収めることが出来る。

そこから聴こえてくる音楽は一流のミュージシャンがスタジオで録音でした完璧な音だ。

あるいはDVDプレイヤーで鑑賞する映画やライヴは一流の監督や編集者が構成した完璧な映像だ。

そこに間違いは無く、視聴者は何度も何度もその完璧な同じ音、完璧な同じ映像を流せる。

しかもその価格はそれほど高いと言う訳でもない。

契約次第によっては驚くほど安い値段で何十万という作品が聴き放題見放題になる。

文明の進歩万歳。

この最先端の技術は時間に追われる現代人に大いなる貢献をしていると思う。

実際、私の場合は子供が出来てから楽しむのは上記のような再生装置に依存していた。

子供が大きくなり、ちょっとした自分だけの時間が手に入った時、
久しぶりにコンサートや歌舞伎に行ってみた。

そこで展開していたのは「生身の人間の行為」だった。

目くばせ。

譜面をめくる音。

時にかすれる役者の声。

流れる汗。

そしてたまに合わない音とか、ミスタッチ。

悔しい表情。

取り返しのつかない感覚。

あるいはキまった音に思わずのドヤ顔とか。(笑)

再生装置からは決して感じることが出来ない生の世界。

それは人間の行ないを観ることに他ならない。

人間である以上、完璧など有り得ない。

しかし奏者も演者も聴者も完璧を求める。

そこには張り詰めた緊張感がある。

この緊張感を失った時、それは芸術と呼べるものなのだろうか?

再生装置で繰り返し聴く行為がダメだなどとは決して思わない。

自分でも毎日毎日再生させている。

しかし再生だけだと時に虚しさを感じてしまう。

「生」を見に出掛けて行った時、その虚しさが何なのかを知る。

頑固だった亡き父は「映画はビデオでなんか観るもんじゃねー。映画館で観るもんだ。」と言い切り、
事実、ビデオ鑑賞を最後までほとんどしなかった。

大好きだった落語は、さすがに色々な録音を持っていたが、
動けるうちは最後まで寄席に通い続けていた。

不思議なもので、最先端の機器を私などより遥かに上手く使いこなしている娘。

非常に沢山の好みの曲をiPhoneにぶち込んで毎日毎日聴いている。

しかし何故だかライヴに行くのを非常に楽しみにしているし、
最近凝り始めた落語に至っては、足繁く寄席に通っている。

「生」とは決して完璧ではない。

けれども人間が演じるからこその緊張感がその場でダイレクトに伝わってくる。

間違えたっていい。

いや、良くはない。

しかし、間違えてしまうからこその緊張感であり、
それこそが音楽や演劇の持つ根本的な瞬間瞬間の刹那な感動なのだと思う。

これだけは、この緊張感だけは。

どんな遠い未来においても、
失った瞬間にそれはもう既に違う何かになっている、と思う。

終わり



余談:

落語を聴きに寄席に行く時でさえも。

再生装置で聴く時とはまるで異質の緊張感をもたらすと感じている。

https://youtu.be/b9M0lddDv2s

↑どうだろうか?

演芸場に行かなければ決して伝わってこない緊張感がある。

パタパタと風に揺られる演芸場の旗。

今日の演者のポスター。

満員御礼の看板。

流れているお囃子の音。

寄席で落語を聴くとは、単に落語だけを抜き出して聴いているのではない。

様々なものが複雑に絡み合いながら寄席の雰囲気を醸し出している。

それは張り詰めた緊張感と共に常にある。

それが落語であり寄席であるのだ、と思う。