ゴッホの絵画とバッハの音楽

ゴッホの絵画とバッハの音楽はそう簡単に人の心に入っては来ないところにおいて共通していると思う。

しかし、一旦侵入を許してしまったら取り返しがつかない点においても共通していると思う。

だがゴッホとバッハは正反対の性質を有していると思う。

それは狂気と信仰だ。

ゴッホが好きなんです」と言い切って来る人を前にすると私は一瞬ドキリとする。

そして次にしげしげとさり気なくその人を観察して本気度を探る。

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リッチでオシャレな中高年の女性だった場合、
「オマエ、本気で言ってるんだろうな?」と凄味をきかせたくなる。(笑)

何故なら、好きでもないクセに芸術好きを気取りたいヤツが言うセリフにしては冗談が過ぎるからだ。

金があって暇もあってカッコ付けのための芸術鑑賞ならモネとかルノワールとか言っておけばいい。

まかり間違ってもゴッホを持ち出してはいけない。

しかしもし、相手が若い女で精神的にイってる感じだったり、
男だった場合。

ヤバい奴が現われたな、と苦笑する。

ゴッホの絵画が好きだと本気で言い切って来れるヤツと言うのは大変な曲者だからだ。

彼らには如何なる絵画技法の知識も絵画の歴史もまるで意味を持たない。

絵画鑑賞の経験ですら意味が無い。

ただただ唯一。

「あの体験」をしているのかどうかだけが問われる。

あの体験をしていない以上、ゴッホの絵画はクソに見えるはずだ。

無理して鑑賞などする必要は全くない。

ゴッホの絵画はそう簡単に人の心に入って来やしない。

ある特定の非常に鋭くも狭い感性を持った者が特定の作品を前にした時にだけ起こりうる体験なのだ。

偉大な評論家、小林秀雄氏はゴッホの≪カラスが群れ飛ぶ麦畑≫の前に立った途端、
「膝が崩れんばかりの衝撃を受けた」と告白している。

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この表現はあの体験をした者のみに分かり得ると思う。

あの体験をしない者が如何にゴッホを技巧的に語ろうが、
鑑賞した作品の数を誇ろうがまるで意味がない。

あの狂気。

狂気こそがゴッホ作品の真の価値であると私は思っている。

星で来るのか?花で来るのか?カラスで来るのか?

あるいは一生来ないのか。

それがフィンセント・ファン・ゴッホなんだ、と思う。

バッハの音楽もまたそう簡単に人の心には響いてこないと思う。

その証拠に子供でバッハ好きと言うのは滅多にいない。

ベートーベンやモーツァルトショパン好きは沢山いる。

だがバッハ好きはいない。

昔、教会オルガニストの人と会話する機会があった。

その人はこう語っていた。

「バッハの音楽はコンサートホールで拍手を受けるためのものではありません。
 神の栄光を称えるためのものなのです。」と断言されていた。

今の私はその通りだと思っている。

バッハ自身もそう語っている。

極めて内省的な音楽なのだ、と思う。

それは非常にストレートであり、
真正面から強烈な力でやって来る。

一旦自分の心に侵入を許してしまったら、
バッハ音楽は「力」で心の奥底まで遠慮なく入って来てしまう。

ドイツ文学者の小塩節氏は、
「最大の栄光と最大の悲劇がある」と表現していた。

神の前にたった1人で立つことを意味するのだ、と。

これは考えようによってはゴッホの狂気よりも厳しい世界だ。
 
ゴッホ作品の「あの体験」は死と生を強烈に意識させられる。

だがバッハの音楽は「良心」を強烈に意識させられる。

どちらの作品も美とは無縁であると私は思っている。

だからこそ、強烈に好きだ。

終わり