東京人が排他的になる素敵な場所について
いくつかの出来事が重なって「あ~なるほど」と思ったので記事にしてみたいと思います。
先日、大阪のお笑い芸人の小藪氏が非常に興味深い事を言っていました。
「東京に住み始めて8年くらい経ったヤツが『小藪さん、東京ってのはね』と語るのは許せん」と。(笑)
小藪氏の話を聞いて思い切り頷いてしまったのです。
例えばパリで暮らし始めたとして、
パリに住んで8年くらいの先輩日本人の存在は確かに大切です。
しかし、パリの事を本当に知りたいと思っている人にとって、
一番付き合いたい人種はパリジャンやパリジェンヌのはずです。
そこで生まれ育った人、つまりネイティブな人の話こそ聴きたくなるのは当然の事です。
この感覚は何を意味しているのかと言いますと、
「排他的な部分を知りたい」と言う事に他なりません。
もっと言うと、外国人である自分だけどネイティブな特別感が欲しいと言った感じでしょうか。
例えばパリの場合、外国人やパリ以外の出身者の人ではなく、
生粋のパリジャンにしか分かり得ないものがあるかと思うのです。
ミシュランの三ッ星レストランではなく、
裏通りにあるさり気なく近所の人達から絶賛されているパン屋とか。
そのパン屋の前でパリジャンやパリジェンヌが交わしている粋な会話。
こういう場所はそう簡単に見知らぬ部外者が入り込める要素はありません。
この感覚は、差別であり、排他的であり、極めて傲慢なものでもあるでしょう。
しかし、その部分こそが本当に知りたいものではないでしょうか。
パリの超詳細なマニアックな本で語られるのはまさしくその部分です。
「観光客が来ない所」などは常套句として使用されています。
誰でも平等で金さえ払えば何とかなる場所ではなく、
ネイティブな者でしか楽しめないような感覚です。
ニューヨークにもロンドンにもあるはずです。
仮にニューヨークならば、もしカッコいいと言われているクラブに行ったとしても、
そこに大勢の日本人観光客がいたら興ざめするはずです。
排他的な場所に行きたい。
それこそが、旅の醍醐味であり、現地で暮らす醍醐味ではないでしょうか。
日本の地方にもそのような場所が絶対に多く存在しているはずです。
昔、大阪人の知り合いに案内してもらった時に、
超穴場みたいな店に連れて行ってもらいました。
私と妹の話す言葉を聞いて東京から来た客だと思ったのでしょう。
あからさまに「東京もんには・・・」と語っていました。
その時私と妹が思ったのは「ここは生粋の大阪人の集まる場所で実に楽しい」でした。
排他的な場所こそが面白い、と。
スペインのフラメンコやアルゼンチンのタンゴもそうです。
観光客が帰った後に本物のフラメンコやタンゴが観られるとはよく言われていることです。
このような場所。
もちろん、東京にもあります。
昨日、上野の東京藝術大学大学美術館で「うらめしや~、冥途のみやげ展」を鑑賞した時、
はったと思ったのです。
一番最初に展示されていたのが「圓朝」だったのです。
まさか三遊亭圓朝の落語を真っ先にもってくるとは、と痛く感心しました。
亡き父は南麻布で生まれ育ち、その父(私の祖父)は平河町生まれで、
生粋の山の手育ちを自認していましたが、
一番拘っていたのは使用する言葉と落語でした。
歌舞伎も好きでしたが、一番は落語でした。
江戸っ子は言葉に非常に拘ります。
父の親友もそうでした。
古い東京人の多くは落語の素養があると感じています。
私も小さい頃、父に連れられて何度か寄席に行ったことがあります。
今にして思うと無謀だった気もしますが。(笑)
とは言え、父は非常に言葉に拘る男でした。
死ぬまで東北地方某県出身の母とは時折言葉が問題でケンカをしていたくらいです。
落語は単純に面白いだけでなく、落語家のプロの喋りを楽しむ場であるかと思うのです。
威勢のいい江戸っ子の啖呵は上方落語とは違った面白さがあるかと思うのです。
寄席は江戸っ子の言葉を楽しむ場所でもあります。
江戸の落語が分かるためには単純に標準語だけでなく、
微妙な江戸っ子の言い回しが理解出来ないといけません。
この世界は極めて排他的です。
実のところ、江戸大歌舞伎もそうだと思うのです。
十八番、助六にはそのような場面が出て来ます。
もちろん、現代の江戸落語も江戸大歌舞伎もメジャー路線を目指しています。
しかし本来は江戸っ子のための娯楽です。
江戸前の寿司屋もそうです。
時価で値段も何もあったもんじゃない。
ちょっと恐そうな職人さんがむっつり握っている場所。
そんなところで粋な会話を楽しむ。
これが江戸っ子の排他的な場所です。
最近、私はフェイスブックのお陰で小中学校時代の友人達とよく顔を合わせています。
すると、彼らは皆一様にその根っこのところでは凄い誇りを持っているのが分かるのです。
誰でも故郷には余程の事がない限り誇りを持っているはずです。
東京人も同じです。
自分達の心の拠り所だと思っている場所が各自あるはずです。
それぞれの個性によって違いはあるでしょうけど。
実は土曜日、久しぶりに私はテレビを見ていて「これはいかん」と思ったのです。
それは隅田川花火大会の実況中継でした。
毎年、私はこれを楽しみにしているのですが、
今年は様相がちょっと変わっていました。
おそらくは副音声だったと思うのですが、
某大阪の芸人さんを起用していたのです。
花火についてのウンチクを語ると言う内容でしたが。
何故江戸の花火に大阪の芸人さんを使うのか?
もちろん、隅田川花火大会には全国花火コンクールも開催されるため、
ある意味全国区とも言えます。
とは言え、長年メインのキャストは江戸っ子を起用している珍しい番組だと思っていました。
江戸時代から続く江戸っ子の花火大会に大阪の芸人さんを起用するのはおかしいと思うのです。
これが他のお笑い番組なら全然構わないのです。
しかしこれは江戸東京の伝統あるローカルな行事です。
このローカル色を拭い去ってしまったらアウトでしょう?
大阪の吉本の劇場に東京人が入り込んで来たら場違いでしょう?
ローカルだからこその面白さってあると思うのです。
何でもかんでも平等で面白ければいい、と言う風潮に私はNOという立場の者です。
あからさまな人種差別は絶対にいけませんが、
「差を認める度量」こそが一番大切であると私は思っております。
皆似たような事ばかりならこんなつまらない世界はないと思っています。
京都が何故素敵なのか?
大阪が何故魅力的なのか?
北海道、東北、北陸、山陽、山陰、四国、九州、沖縄等々。
それぞれが個性的で、時に排他的であるからこそ面白いと思うのです。
「東京もんに分かって堪るか!!」と言う世界があってしかるべきです。
その反対に「別の地方の人に分かって堪るか!!」と言う世界もあってしかるべきです。
個性とはそういうものだと思うのです。
そんな事をふと思ってしまったのです。
終わり
先日、大阪のお笑い芸人の小藪氏が非常に興味深い事を言っていました。
「東京に住み始めて8年くらい経ったヤツが『小藪さん、東京ってのはね』と語るのは許せん」と。(笑)
小藪氏の話を聞いて思い切り頷いてしまったのです。
例えばパリで暮らし始めたとして、
パリに住んで8年くらいの先輩日本人の存在は確かに大切です。
しかし、パリの事を本当に知りたいと思っている人にとって、
一番付き合いたい人種はパリジャンやパリジェンヌのはずです。
そこで生まれ育った人、つまりネイティブな人の話こそ聴きたくなるのは当然の事です。
この感覚は何を意味しているのかと言いますと、
「排他的な部分を知りたい」と言う事に他なりません。
もっと言うと、外国人である自分だけどネイティブな特別感が欲しいと言った感じでしょうか。
例えばパリの場合、外国人やパリ以外の出身者の人ではなく、
生粋のパリジャンにしか分かり得ないものがあるかと思うのです。
ミシュランの三ッ星レストランではなく、
裏通りにあるさり気なく近所の人達から絶賛されているパン屋とか。
そのパン屋の前でパリジャンやパリジェンヌが交わしている粋な会話。
こういう場所はそう簡単に見知らぬ部外者が入り込める要素はありません。
この感覚は、差別であり、排他的であり、極めて傲慢なものでもあるでしょう。
しかし、その部分こそが本当に知りたいものではないでしょうか。
パリの超詳細なマニアックな本で語られるのはまさしくその部分です。
「観光客が来ない所」などは常套句として使用されています。
誰でも平等で金さえ払えば何とかなる場所ではなく、
ネイティブな者でしか楽しめないような感覚です。
ニューヨークにもロンドンにもあるはずです。
仮にニューヨークならば、もしカッコいいと言われているクラブに行ったとしても、
そこに大勢の日本人観光客がいたら興ざめするはずです。
排他的な場所に行きたい。
それこそが、旅の醍醐味であり、現地で暮らす醍醐味ではないでしょうか。
日本の地方にもそのような場所が絶対に多く存在しているはずです。
昔、大阪人の知り合いに案内してもらった時に、
超穴場みたいな店に連れて行ってもらいました。
私と妹の話す言葉を聞いて東京から来た客だと思ったのでしょう。
あからさまに「東京もんには・・・」と語っていました。
その時私と妹が思ったのは「ここは生粋の大阪人の集まる場所で実に楽しい」でした。
排他的な場所こそが面白い、と。
スペインのフラメンコやアルゼンチンのタンゴもそうです。
観光客が帰った後に本物のフラメンコやタンゴが観られるとはよく言われていることです。
このような場所。
もちろん、東京にもあります。
昨日、上野の東京藝術大学大学美術館で「うらめしや~、冥途のみやげ展」を鑑賞した時、
はったと思ったのです。
一番最初に展示されていたのが「圓朝」だったのです。
まさか三遊亭圓朝の落語を真っ先にもってくるとは、と痛く感心しました。
亡き父は南麻布で生まれ育ち、その父(私の祖父)は平河町生まれで、
生粋の山の手育ちを自認していましたが、
一番拘っていたのは使用する言葉と落語でした。
歌舞伎も好きでしたが、一番は落語でした。
江戸っ子は言葉に非常に拘ります。
父の親友もそうでした。
古い東京人の多くは落語の素養があると感じています。
私も小さい頃、父に連れられて何度か寄席に行ったことがあります。
今にして思うと無謀だった気もしますが。(笑)
とは言え、父は非常に言葉に拘る男でした。
死ぬまで東北地方某県出身の母とは時折言葉が問題でケンカをしていたくらいです。
落語は単純に面白いだけでなく、落語家のプロの喋りを楽しむ場であるかと思うのです。
威勢のいい江戸っ子の啖呵は上方落語とは違った面白さがあるかと思うのです。
寄席は江戸っ子の言葉を楽しむ場所でもあります。
江戸の落語が分かるためには単純に標準語だけでなく、
微妙な江戸っ子の言い回しが理解出来ないといけません。
この世界は極めて排他的です。
実のところ、江戸大歌舞伎もそうだと思うのです。
十八番、助六にはそのような場面が出て来ます。
もちろん、現代の江戸落語も江戸大歌舞伎もメジャー路線を目指しています。
しかし本来は江戸っ子のための娯楽です。
江戸前の寿司屋もそうです。
時価で値段も何もあったもんじゃない。
ちょっと恐そうな職人さんがむっつり握っている場所。
そんなところで粋な会話を楽しむ。
これが江戸っ子の排他的な場所です。
最近、私はフェイスブックのお陰で小中学校時代の友人達とよく顔を合わせています。
すると、彼らは皆一様にその根っこのところでは凄い誇りを持っているのが分かるのです。
誰でも故郷には余程の事がない限り誇りを持っているはずです。
東京人も同じです。
自分達の心の拠り所だと思っている場所が各自あるはずです。
それぞれの個性によって違いはあるでしょうけど。
実は土曜日、久しぶりに私はテレビを見ていて「これはいかん」と思ったのです。
それは隅田川花火大会の実況中継でした。
毎年、私はこれを楽しみにしているのですが、
今年は様相がちょっと変わっていました。
おそらくは副音声だったと思うのですが、
某大阪の芸人さんを起用していたのです。
花火についてのウンチクを語ると言う内容でしたが。
何故江戸の花火に大阪の芸人さんを使うのか?
もちろん、隅田川花火大会には全国花火コンクールも開催されるため、
ある意味全国区とも言えます。
とは言え、長年メインのキャストは江戸っ子を起用している珍しい番組だと思っていました。
江戸時代から続く江戸っ子の花火大会に大阪の芸人さんを起用するのはおかしいと思うのです。
これが他のお笑い番組なら全然構わないのです。
しかしこれは江戸東京の伝統あるローカルな行事です。
このローカル色を拭い去ってしまったらアウトでしょう?
大阪の吉本の劇場に東京人が入り込んで来たら場違いでしょう?
ローカルだからこその面白さってあると思うのです。
何でもかんでも平等で面白ければいい、と言う風潮に私はNOという立場の者です。
あからさまな人種差別は絶対にいけませんが、
「差を認める度量」こそが一番大切であると私は思っております。
皆似たような事ばかりならこんなつまらない世界はないと思っています。
京都が何故素敵なのか?
大阪が何故魅力的なのか?
北海道、東北、北陸、山陽、山陰、四国、九州、沖縄等々。
それぞれが個性的で、時に排他的であるからこそ面白いと思うのです。
「東京もんに分かって堪るか!!」と言う世界があってしかるべきです。
その反対に「別の地方の人に分かって堪るか!!」と言う世界もあってしかるべきです。
個性とはそういうものだと思うのです。
そんな事をふと思ってしまったのです。
終わり