自然保護と自然破壊の矛盾

基本的に、
「人間は自分の知らない・経験しない事物に対し、非常に冷酷になれる」
と言うのが持論である。

具体例:アフリカの飢餓問題に本気で涙を流す日本人はまず滅多にいない。

    中南米の革命で命を落とす人に涙を流す日本人はまず滅多にいない。

    アフリカの海でシーラカンスが絶滅したとしても、へ~そうか?、であろう。

最初に結論を書く。
「自然を知らぬ者、自然に親しまぬ者は決して自然保護者にはなれない」
  
木村東吉と言う日本のオートキャンプの草分的な人が、
その著書だったかメルマガに書いていた。

子供を自然に触れさせなければイケないと言って、
キャンプ場を開設する。
しかしキャンプ場建設も立派な自然破壊。

本来の自然は人間に優しくなんかない。
だから自然との境界あたりに、
自然を破壊してキャンプ場を作って、
そこで子供達に自然体験をさせる。

これは意味のある行為なのか?と言う問題提起で、
氏は「意味がある」と結論づけている。

自然体験をさせるには、ある程度の自然破壊が必要である、と。

私もこの意見に同調している。

前にも書いたが、以前、女優の高木美保がNHKの討論番組で、
非常に興味深い発言をしていた。

「今の40代までが首都圏で暮らしている人の中で、
 子供時代に自然が普通に周りにあった最期の世代。
 それより若い世代はその親が積極的に自然に触れさせない限り、
 自然を知らずに大人になってしまう世代。」と。

私は、
自身の「釣り」「天体観測」「動物飼育」と言う趣味を通して得た体験であるが、
自然体験の無い人間ほど自然に対し残酷になれる、と言う傾向を見出す。

犬を知らぬ者は犬の死には無頓着である。

猫を知らぬ者は猫の死には無頓着である。

川を知らぬ者は川の死には無頓着である。

海を知らぬ者は海の死には無頓着である。

例えば、釣りをやる人間は魚の存在に敏感である。
(一部には平気でゴミを捨てるヤツもいるが)
だから、今の日本の川の惨状が良く理解できる。
山奥の渓流に入ってみるが良い。
「こんな所まで!?」と言うくらい河川工事が行われている。

また、口先だけの環境保護
これも厄介だ。
釣り人の捨てる糸に絡んだ鳥の悲惨な映像が流れる。
釣りがイカン、と言う。
(確かに糸を捨てるのは大問題ではあるが)

しかし、大抵の都市部の人は川に足を運ばない。
足を運ぶのは、キレイにコンクリートで護岸整備された場所だけ。
川と言う場所は臭気を発し、泳いではイケナい危険な場所だと思っている。

本来の川を知らない人が、
机上の空論で川を語り、
そういう一部勢力が発言権を持つと時にトンチンカンな行動をする。
何でもかんでも「禁止」と言う方向へ。
大抵そういう人は自然遊びとは全く縁の無い人。

立ち入り禁止にすれば良い、と。
そうすれば手付かずの自然が増える、と。

かくして自然を知らぬ者が量産される。

自然は人間に優しくなんかない。
けれども自然の全くない所では人間は萎れてしまう。
矛盾するこの性質。

アウトドア用品メーカーのコールマン2代目社長の言葉が思い起こされる。
「アウトドアに出て自然と親しむ事は、より人間らしくなると言う事だ。
 何故なら、私達は元々そこにいたのだから。」

少なくとも、都市生活を享受している者は、
最低でも自分の子供が小さいうちには、
「自然体験」を一所懸命子供にさせる事をお勧めする。
でないと、子供とは名ばかりの、
とんでもないモンスターロボットが出てきそうに思ってしまう。

通っていた中学受験塾の先生に良く言われていた。
「小学校3年までは自然体験を中心にさせてあげて下さい。
 九九さえ完璧にしてくれたら、
 勉強は4年からでOK」と。
(ただし、3年から週一で「慣れ」の意味で塾通いは必要であったが)

また、
「小さい頃の自然体験がない子は理科と社会の成績アップが難しい」とも・・・

まあ、人間、嫌いな物は決して覚えられないものである。

輪中、扇状地ベテルギウスシリウスプロキオン、デネブ、アルタイル、ベガ、
セイタカアワダチソウタガメ、ミズスマシ・・・
↑中学受験、理科・社会の基本中の基本

まあ、そんな事はさておき、
きれいな川で遊ぶ事は非常に楽しいヨ!!
大人でさえもっ!!
(^^v