映画:ダイアナ

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この映画を観て真っ先に感じたのは「日本では絶対に作れない」だ。

今から25年ほど前、私はちょっとだけロンドンに滞在していた。

ロンドンに着く前、2日くらいだったかな?モスクワを観光出来た。

真冬の赤の広場は氷点下10度以下だった。

そんな夜に私は衛兵交代を見ることが出来た。

たった2人の衛兵交代だが見応えは十分で、
とても人間の動きとは思えない素晴らしいショーに思えた。

ロンドンに着いてからバッキンガム宮殿の衛兵交代を見たら気が抜けてしまった。

大勢の衛兵がゾロゾロと来て、
モゾモゾと列の乱れを修正している様子は滑稽にさえ思えた。

日本に戻ってから同じくイギリス滞在が長かった友人に上記の話をしたら、
彼はしげしげと私を見てからこんな風に語った。

「一体、君はどっちが人間的だと思う?」と。

ギクリとした私。

私達日本人はある特定の職種を神格化し、
またその当事者にもそうあるように強く求める。

この傾向はもしかしたら全世界共通なのかも知れない。

しかしながら当事者も人間である以上、
例えば、教師や聖職者と言えども健康ならば性欲を超越するのは不可能だ。

理性で本能を完全にコントロール出来ると思い込んでいる傲慢な年寄りは、
あるいは単なる体験不足の若者は、自分が性の超越者であるかの如き発言をする。

下らない本能に踊らされる愚かな者め、と。

とんでもない大嘘つきで、極めて危険な考えとも言える。

人間を神のように高めようなどとした場合、
間違いなく歪んだ精神状態となり、変質的なヒステリー状態へと陥って行く。

気付いてないのは当人ばかり、と。

特に性の問題は非常に厄介だと言える。

何でもかんでもオープンにすべきとは思えないし、
理性や品格も人間には必要な要素だと当然思っている。

けれども、こと性の問題になった時。

人は、それも少なくない人は。

自分を性の超越者の如き発言をして、
さも自分は高みにいて、性の当事者を非難するケースが後を絶たない。

この映画においては、ダイアナを1人の女性として描いている。

恋や性に悩む1人の女性として。

ただ、彼女はプリンセスであっただけ。

この問題がどれほど深刻な事態を彼女の人生にもたらしたのか???

結果を見れば一目瞭然であるかと。

性の問題を語った場合、語る人間も語られた人間も人格を卑しめてしまう傾向がある。

そんな風に思う性の超越者を気取った連中が多いからだ。

1つだけ、はっきりと、断固として言える事がある。

ダイアナは人間であったのだ、と。

人間である以上、恋や性に悩むのは当然だ。

私は、つくづく思う。

有名人の性を晒すのは犯罪ではないか?と。

パパラッチが追い駆け盗撮を繰り返す行為は犯罪ではないか?と。

法に触れる行為をスクープするのはマスコミの立派な仕事だと言える。

しかし、公開を望んでいない恋愛行動を盗撮してマスコミに発表する行為は立派な犯罪なのでは?、と。

そして、性の超越者を気取りながらも、その手の記事を読みまくっている者。

恥を知れ、と私は言いたい。

愛は、そして性は、健康な者なら誰でも求めるモノだ。

しかし、プライバシーは絶対に尊重されなくてはならない。

それが人間である以上誰でも。

この映画は、崇高な慈善事業と愛と性に悩む元プリンセスを見事なまでに描き出している。

そして、それは人間の本質を鋭く抉り出している。

私は当ブログにおいて意識的に芸術活動を中心とした人間の高度な精神の営みについて書き、
その直後に性行動に直結した記事を書くようにしている。

理性と本能。

これは人間の本質であると私は看做しているからだ。

そのどちらも大切なのであり、片方を偏重した場合、
人間は脆くも崩れ去って行く存在なのである、と。

この映画はまさしくソレを残酷なまでに描いているかと。

終わり